タグ:道徳

世人余話◇賄賂の道徳


社会道徳にも階層がある。

指導者道徳、文化道徳などは、社会の表面の代表的な道徳。

もう少し下がると、泥棒の道徳、ギャンブルの道徳、そして賄賂の道徳などがある。


指導者道徳などの社会の表面にある代表的道徳が頽廃しても、やり直しはできる。だから、極論すれば大したことはない。


しかし、社会の下層や裏稼業の道徳が崩れたら、修復がきかない。


人間社会には、殺人や傷害、泥棒や詐欺、ギャンブル、賄賂などの暗い側面がある。この側面の道徳がしっかりしていると、社会の土台がしっかりしているということで、上がグラついても取り替えがきく。

が、土台が崩れてしまったら修復はきかない。


その意味で、政治家や医者や教師の腐敗や堕落などは、まだどうにかなる。大したことではない。

しかし、詐欺や賄賂などの犯罪者連中の道徳(掟)が崩れたら、どうしようもない。日本民族がダメになる。


・詐欺でも、若い連中が年金暮らしの年寄りの慈悲心を逆手にとったり、


・殺人でも、幼児をブン殴って刺し殺したり、バラバラに切り刻んでトイレに流したり、


・賄賂でも、ただ愛人に貢ぐためや、私利私欲のためだけに貰って、しかも相手の顔をを立てないようにすると、これはいけない。


なぜいけないか。人間の徹底的な堕落であるからだ。


例えば、賄賂にもルール・道徳・恥がある。

だから、賄賂を贈るにも、その道をもって、相手の顔をを立てるように贈らなければならない。

受け取った賄賂も、その使い方に道徳がある。そのまま自分で着服するのはダメ。その賄賂に意味を持たせなければならない。贈る相手を助けるようにしなければならない。


確かに、賄賂は汚いが、賄賂があることによって社会が円滑に動く潤滑油の役割を果たしている。


「道徳的に許される賄賂なんてあるのか!」という世の中を知らない書生論もある。

だが、そうじゃない。


世の中には裏面の事実というものがある。

そこには、裏面の道徳がある。


会社や顧客の金を横領して愛人に貢ぐから、つまらない世の中になる。

愛人に貢ぐことも、世の中の裏面の事実としてはある。貢ぐなら、貢ぐ金で貢げばいい。会社や顧客の金を横流しするのは、人間の徹底的堕落である。


それでは日本民族がダメになるのだ。


この道徳を頽廃させないためには、「恥を知る」という風潮を養うしかない。

恥ずかしいという心は、「敬う心」を高めることで、より顕在化する。



そこで必要になるのが、子供や大衆が敬意を抱く思想や行為や人物を作り出していくこと。


特に子供が人格的人間として成長するためには、愛だけでなく敬が必要。

子供は愛だけでなく、敬する対象を欲し、その対象から自分が認められる、励まされる、叱られる、そして未熟な自分を恥ずかしく思うそういう心理が大切。


そういう心理的満足を、私たち大人が子供たちに十分与えていないところに、深く深く反省すべき点があるのではないか。

人間には「敬愛」という心がある。


そのうちの「敬」とは、自分より優れたもの、崇高なものに、少しでも近付きたい、献身したいという情であり、それが「宗教」の根本。


また、崇高な存在と自分を比べて、自分はまだまだ未熟である自覚し、恥らい、向上心を持って自分を正して行こうという情も起こる。

それは「道徳」となる。


従って、「敬」を外に発すれば宗教となり、内に省みれば道徳となる。

それぞれの本質は、同じく「敬」である。


だから、宗教とは偶像崇拝でもないし、神学でもない。



宗教の本質というのは、

一人の人間の安心立命を見出し、人類の幸福と平和を期待する願いに応えようとするものである。


そして、人類の今を照らし、未来を照らす道筋となるものである。


従って、宗教人であるからには、大いなる慈悲心や見識を持ち、これらに応えなくてはならない。


しかし、宗教への偏見を持つ人が多いのは、こう言った宗教の本質に応えず、本質から逸脱している既成宗教・新興宗教が多いからではないか。



この宗派だけが正しいとか、この教えでなければダメだというような差別法門を排除し、良いものは全て取り上げて、各々好むところに従って行なっていくのが普法というもの。



私は、「敬」という情から、差別や偏見を超えて、素晴らしい人だというのであれば、その人の主義主張や職業に囚われず、どんな人にも会ってみたいと思うし、人にもそう勧める。


「自分一派」にこだわるのは、とても勿体(もったい)ない。



そんなことより、

本質を見据えたい。


慈悲を大切にしたい。


↑このページのトップヘ