第436話◇勉強会の宣伝
優しく寛容である。
但し、自分が相手より優位に在る時だけ。
勇気と実行力がある。
但し、自分が順境に在る時だけ。
仲良くし、励まし、協力を惜しまない。
但し、その相手が自分の味方である時だけ。
自分に厳しい。
但し、見返りがあったり、自分を理解してくれる人がいる時だけ。
表面上の態度はいいかもしれないが、…結局、全部私利私欲という心から出た態度に過ぎない。
私利私欲は、良心・誠という己を映す鏡を曇らせる。
その心は結局、
道理(万物生成化育の法則)・道義(人としてのルール)に反していくことになりはしないか…。
人の立居振舞を観てその心を察するも、己の「人物」ができていないと、容易に心を弄(もてあそ)ばれてしまう。
自分の立居振舞からその心を反省するも、己の「人物」ができていないと、己の私利私欲に弄ばれ、それに気付かない。
それで「自分を活き活きと生きる」ことができるのだろうか。
つまり…、ここに「人物」を鍛える意義がある。
人物を鍛えるとは、道理・道義を会得し、自分の個性を把握・開発しながら自己を確立し、自他の共栄を図っていくことである。
根本の道理の性質・はたらきというものは、決して他を排斥しながら自己を正当化してきたのではなく、試行錯誤を重ねながら、様々な違いで他者と結びつきながら万物を生成化育させてきた。
この道理を深く体得して様々に敷衍し、個性に応じて様々に実行していくことが、眼目である。
そのための強力な一助になるのが、「経書」の活学である。
⚫︎自分の身体(心+肉体)、立居振舞を修める「小学」、
⚫︎自己を修め、自ら光りを放つことで周囲にも影響を及ぼしていく「大学」、
⚫︎没我となって人々を結びつけ、様々に新たな創造を成し遂げていく「中庸」、
⚫︎これらを網羅した「論語」、
⚫︎自分の性・命を自覚し、己の道に則り、力強く豊かに生きろと励まし続ける「孟子」、
⚫︎万物生成化育・創造変化の流れや勢いを伝える「易経」、等。
これらは全て、造化の道理の根本を体得した先哲達が遺し継承してきた人類の遺産である。
従って、体得した根本に至ったその精神は一つである。
この「一」を、孔子は「仁」と言い、曾子は「忠恕」と言い、子思は「誠」と言った。他にも、「天」「造化」「道理」「神」「宇宙」…等と表した。
どれも同じである。
人の個性の違いにより、違った表現が為されているに過ぎない。
従って、この観点からすれば、孔子の心は、釈迦の心、キリストの心、ソクラテスの心とも共通する。
違いというのは、その表現においてである。
「経書」を学ぶというのは、この「一」を体得することである。自分を生きる根源的・原理的・指導的力を会得して、そこから個性に順って自分を伸ばしていくことにある。
字句の解釈により、どれが正しいとか優れているとかいうのは、考証学的には意義があるだろうが、我々はそこを眼目とはしない。
あくまでも「一」の体得・自己の確立・自他の共栄こそが主眼である。
もちろん、「一」に至るのであれば、何から至っても問題はない。自分の個性・好みに合わせて学べばよい。
おっと、勉強会の宣伝みたいなブログになってしまった…。
…ではまた。
夜中の勉強会で。