タグ:稽古

422話◇稽古に「大学」を使う


ダンベルを持ったまま、「突き」の稽古。


技とは、技術と信念である。

技術の部分は教えられる。

しかし、信念はその人次第。


信念はどうやって鍛錬するか。



例えば、四書のひとつである「大学」の「八原則」を当てはめて見る。

根本に遡れば、「経書」も「武道」も変わるところはない。

だから、当てはめられる。


「大学」の「八原則」は、三綱領の「至善に止(し)する」を受けて、

1.「止する」ことを知りて

2.而るのち「定まる」ありと始まる。


稽古中、「その心でいいのか」「それが己の義か」「それが己の誠か」と、心のあり方を常に自らに問う。

その拳に、己の義が宿る(至善に止する)と確信したなら、習得した技(突き)がよく「定まる」ようになる。


3.「定まって」而るのち「よく静か」なり。


形が定まれば、重さなどは既に消えている。ガサガサと半端な音は無く、「ビシッ!」と音も定まり、凛とした静けさが出てくる。


4.「静か」にして而るのち「よく安んず」。


動きも心も凛とした静けさに至ることで、心は安らかになり、純一になり、錬成されてくる。


5.「安んじて」而るのちよく「慮(おもんばさか)る」。


心が純一に練られていくことで、物事は偏見や打算なくクリアに見える(慮る)ようになる。


6.「慮りて」而るのちよく「得(う)」。


物事がクリアに見えるようになるということは、己の心が「至善(義・誠)」に到達している(得)ということである。


7.物に本末あり。

8.事に終始あり。先後するところを知れば則ち道に近し。



こうして、誰よりも強くなる。

道を歩いていく。

志を成し遂げていく。

image

405話◇人を瞬時に見抜く


人を見抜く方法として古来から言われる「八観」や「六験」。

それとは別に、瞬時に見抜く方法がある。


人間というのは、初めて相対した瞬間に雌雄が決まる。やってみなければ分からないというのも一つの理ではあるが、やはり、やってみなければ分からないというのはまだまだ未熟なのである。



いじめに遭ったひとはよく分かるだろうが、人を虐(しいた)げようとするいじめっ子の悪意は残酷で、実は殺意によく似ている。

殺意はあからさま過ぎて表に出す人は多くないし、殺気は相手に伝わりやすい。

ただ、笑顔で「よろしく」と握手を求めてくる人の中にも、こちらに悪意を抱いている人もいる。


だから、殺気の前段階にある悪意を見抜く技は、自分や周囲を守るためにも有用なのである。



稽古では、「先(せん)を取れ」と伝える。未発の先、気の先等から始まり、対の先、後の先まで様々なタイミングで取るべき「先」はあるが、その内実は、戦いにおいて相手の悪意・殺意を瞬時に見抜くことにある。



見抜く技は普段の稽古に取り入れてある。


攻者は守者に対して、「自分の親の仇を取るように攻撃しろ」と言うのがそれだ。

それはどういうことか。


攻者は守者に悪意や殺気を放つ。

守者は、「お前をぶっ殺してやる」「八つ裂きにしてやる」等、攻者の悪意や殺気を感じ取るようになってくる。

それこそが、当(まさ)に技なのである。


いじめられっ子や武道家に限らず、ある程度の所に到達した人達は皆、敵か味方か分からない相手の本性を瞬時に見抜く。


全身で「相手の悪意を感じ取る」という技を身に付けているのだ。


護身という観点からすれば、悪意や殺意という相手の気を感じたら、躊躇(ちゅうちょ)することなく一撃必殺(必滅)を狙う。

一発目が当たれば、二発目三発目も当たりやすい。それが「先の先」を取る先手必勝法。


また、「毒を制するには猛毒をもって」と言われるように、攻者を圧倒する殺気も効果的な力となる。

圧倒的な殺気以外には怯まない相手もいるから。



ただ、それだけでは「殺気vs殺気」であって、武の本義から遠ざかる。

そもそも「武」とは、「二つの戈を止める(争いを止揚して一段上に上がる)」ことであり、その観点からすれば、守者が反撃に転じる時は、悪意や殺気とは別のものも必要となる。


別のものとは、例えば造化そのものの心(正心・無心)である。


演武稽古の時には、攻者と守者お互いがそれぞれの心(殺気と正心・無心)を交互に尽くすことで陰陽相交わり、造化を顕現させていくように演武を二人で築き上げていくことになる。


稽古の中で、また次の答えを各自体得して下さい。

これは教外別伝のことだから。

image


375話◇意志が存在を規定する


一般的には、「存在や事象が意志を規定する」。

しかし、強き意志は逆に存在を規定する。


世論とともに物事を考えるような人は、全て自分で目隠しして、耳に栓をしているようなものだ。


大切なことは、他人が自分をどう見ているかではなく、自分が彼等や世間のことを、どう考えてやるかということである。


だから、どんな境遇においても主体性を失わない者には、魅力があり面白さがある。



どうなっても心は折れない。目は死なない。

強くてしなやかな心がある。


そういう心を養うことが、稽古を通じて、筋トレや技を通じて会得するものの一つである。


「勇気を出して物事に全力で取り組めるようになった。自分を発揮できるようになった。前に出られるようになった」。

そう思えるようなら、そのまま稽古を続けて下さい。


身につけた形に縛られることなく、その場に応じて自在に活かしていけるようになります。



強き意志は、物事に縛られることはない。

逆に、強き意志こそが物事を規定する。

🔴創造変化9.◇陰陽 泥も華も忘れずに


0.言葉にすると矛盾しているものでも、物事は矛盾を内在させながら進み、発展していくもの。

矛盾を無くすことばかり考えていると、理想を見失う。大きく構えて、矛盾はそのままで、それでも飲み込んで消化していくこと。


矛盾といえば、やはり人間関係だろう。

しかし、「矛盾は嫌だ」といって、人間関係を拒んで殻に閉じこもってばかりいては、そこに成長発展はない。


他人に対して無関心に過ごしていると、心は軟弱になる。すると、些細なことにも傷付いて反発するようになってしまう。自分は被害者である捉えるようになる。

親切に気付けなくなり、傲慢になり、社会に自分を曝していくことが難しくなる。

つまり、「造化」から離れてしまう。


1.そんな生き方が理想なのか?


矛盾を引き受ける器量と、そこから共栄に進む機鋒(展開力)を備えた男が理想ではなかったか。



◇まずは自分の中の矛盾(陰陽)を止揚していく

・正座(姿勢)は崩さず、柔らかい雰囲気を創る

・心を無(静)にして、稽古(動)で汗をかく

・温和な態度で接して、己の義は貫く

・厳しく当たる中で、温かい心を離さない

・無手の技を稽古する中で、得物の技を稽古する

・酒も女も大好きの中にあって、崩れない

・元気で気力を充実させて、静かである

・妥協しまくる中で、軸はブラさない

・怒りの中で、言葉は丁寧に

・人は憎まないが、そのふざけた行為は毅然と排除する

・憎む力と祝福する力。どちらも持つ。

・貸すことと借りること。借りは真っ当に返し、またいつでも貸せるやり取りを継続。

・陰陽の矛盾は、理想を掲げて飲み込む

・闘うことは厭わないが、平和共栄を目指す


・可愛いが、腹が座っている。


これら自分の中の陰陽を、日常の喜怒哀楽・艱難辛苦・利害得失・栄枯盛衰のあらゆる経験を味わい尽くしながら修養鍛錬していき、自らの風韻(風流余韻)・リズム、つまり個性を磨き上げていく。



もちろん、時には陰(裏・影・秘密)に徹し、時には陽(表・光・公開)に徹することもある。


ただ、そんな中にあっても、

陰に徹する時は、華(陽)を忘れず。

陽に徹する時は、泥をかぶること(陰)も忘れず。


常に陰陽を抱え込むことは様々なリスクがあるにせよ、陰陽片方だけだと進歩発展の力が失われていく。

力が失われるよりは、リスクを取る。力を取る。



2.◇人は本来「造化(陰陽)の働き」そのものである。つまり、

・元気であり

・明確な理想を持っている

・矛盾を飲み込むくらい大きく構え、

・時に陰に徹し、時に陽に徹して働く

・良い時に驕らず、悪い時に凹まず、

・自らの風韻(リズム)を育み、

・様々に造化を具現化(自己実現)していく。


木を見て森も見て、私利私欲にこだわらずに全体の調和や陰陽のバランスを考えて微調整しながら物事を発展させていくと、自ずから自分も豊かになっていく。


それが自然なことであると、東洋思想は教える。

第321話◇心を落ち着ける


「まあ座れよ」。

座って心を落ち着ける。



たとえどんなに怒り狂っていても、「そんな試練も理不尽さも面白い…」と、心の奥底の奥底では「喜をもって感謝」を忘れない。


その余裕が必要だ。



心を落ち着けるために、正座をして写経をする人がいる。


心を落ち着けるために、汗を流して稽古する人がいる。



心を落ち着けるのは、その直後からまた「造化の働き」を様々に具現化していくため。

その時その時に即応して、臨機応変に自己を実現させていく起爆力を養うため。

そして、理想を目指して道を歩いていくため。



「喜をもって感謝」という余裕をもって、

次に何が起きても臨機応変に即応するために、心を落ち着かせる。



一瞬で心を落ち着かせる人もいるだろう。


陰と陽。静と動。何でもいい。

心を落ち着ける手段を持つこと。

↑このページのトップヘ