東洋思想◇「克己」とは苦痛束縛では無い!
心には「真の自分」がいて、そして同時に「弱い自分」もいる。
「真の自分」とは、自分の心の奥底の良心(造化)に誠実な自分のことであり、
「弱い自分」とは、様々な外からの刺激に流されたり、肉体的感覚的な欲求に流される自分のことである。
どちらも自分であり、どちらかを排斥することはあり得ない。
しかし、様々な肉体的感覚的欲求に流される態度は、自分を大切にするとは言えない。
なぜなら、これらの欲求をそのまま放任すると、いずれ生活の破綻を招きかねないからだ。
だから、弱い自分であっても、自分を大切にするならば、これらの欲求に制約を加える必要がある。
例えば食欲が節度を超えて放縦に走るなら、肥満や糖尿病など、健康を害する。
「克己」とは、自らを大切にしたいという意志から起こる主体的な「自己統制」である。
自分の内面的欲求を体現していくため、自分の個性才能を躍進させるために、雑多な欲求を切り捨てるのではなく、一括し統制していく作用のことである。
自分を大切にするからこそ、自分で自分を統制し牽引していくのである。
自分を大切にしたいが、克己はムリというなら、一体その態度にどんな意義や価値があるというのだろう?
それにもかかわらず、一般的に克己は厳しいとされる。何故か?
それは、自分で自分のことがよく分かっていないことも一因だろうが、否定する必要のない自分の要求を「認めてはいけない。全て我慢しなければいけない」と考えているからではないか。
そもそも、人間の要求は、全て相応の理由があり、これらを一切否定することは、生命の否定に繋がる。
にも関わらず、不可能に見える我慢を強いようとするから、克己は耐え難いと忌み嫌われる。
そういう0か100 かという話ではない。
例えば、腹一杯食事して動けない…という食欲の満たし方をするのではなく、腹六分や腹八分で食欲に節度を持たせ、次やることへ自分を向かわせ、新たに自己を発揮展開していくのだ。
中途半端にするということではない。
自己統制していく。それは、物事を成し遂げていく原動力である。
つまり、克己は最も良く自己を発揮し実現することであり、克己という自己統制は真の自分を作っていくものである。
決して、無闇に自由を拘束して苦痛を強いるものなどでは断じて無い。
克己とは、自分が放つ欲求をなくすことではない。
自己統制し、真の自分(個性・才能・資質)を躍進させることである。
それは、「自分を大切にする」という、
自然な態度である。