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519話◇大会お開きの挨拶


選手、スタッフ、そしてこの大会に尽力してくれた全関係者の皆様、大変お疲れ様でした。



自分たちが全身全霊を傾けて、本気で取り組んだものには魂が宿ります。


大会を終えた今、各チームの作品を通して、その魂の尊さと愛おしさを感じています。



望む結果を残せたチームは、その喜びを誇ってください。

そして、結果に満足出来なかったチームは、その悔しさを味わっている心の苦しみを誇ってください。

その苦しみこそ、どこまでも向上心を持ち、安易に自分に妥協しなかった人達だけが味わえる、精神性の高さの証明だからです。


○○大会という名の通り、その技術の高さだけに目を奪われて見落としてしまいそうになりますが、今大会の真の価値は、まさにその精神性の高さにあります。



ここで表現した魂と技術を、明日からまた仕事の姿勢として形にし、社会に素晴らしい価値を提供して下さい。


そして、なお一層の努力を重ねて、「道」を延ばしてくれることを、心より期待しています。


ありがとうございました。

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東洋思想◇時に中(あた)る


時中について。

「中」とは相対立しているものを統一(相結ぶ)して、一段高いところへ進めること。同時に「あたる」という意味もある。


「君子の中庸や、君子よく時中す」(中庸)


訳)君子の中庸とは、立居振舞や応対が、その時その場その事にピタッと的中し、矛盾や相剋を克服して進歩向上していくこと。



「君子はその位に素して行ない、その外を願わず。富貴に素しては富貴に行ない、貧賤に素しては貧賤に行ない、夷狄(いてき)に素しては夷狄に行ない、患難に素しては患難に行う。君子入るとして自得せざるなし」(中庸)


訳)君子は、その地位や境遇に応じて、為すべきことに最善を尽くす。それ以外のことを願うことはない。

もし、富貴の身分になれば、金持ちらしくその地位に相応(ふさわ)しく生きる。金を持って驕ったり、高い地位について威張ったり人を見下したりしない。

もし、貧賤の境遇にあれば、その境遇に安んじて生きる。世の中を恨んだり人を妬んだり、金持ちに媚びへつらったり卑屈になったりしない。

もし、夷狄(野蛮未開の地)に住むようになったら、郷に入れば郷に従うが、仁義を失うようなことはしない。

もし、艱難に遭ったら、その艱難の中に堂々と生きる。決して見限ったり自暴自棄になったり卑屈になったり迷ったりしない。

このように、君子はいかなる境遇においても己を失わず自得(自分で自分をつかむ)して生きる。

境遇に支配されず、主体性を持って生きる。これを素行という。



「言語の道、必ずしも多寡(たか)を問わず。ただ、時中(じちゅう)を要す。然(しか)る後、人その言を厭(いと)わず」(言志耋(てつ)録)


訳)言葉は、多い少ないが問題ではない。ただ、話すことがその時その場その事に適切であることが必要である。もしそうなら、人は話を聞くことを嫌がらない。



時中。

「その時、その場、その事」にピタリと的中する事で、進歩向上していくこと。



ピタリと的中といえば、「挨拶」。

「挨」とは、心を開く。

「拶」とは、相手に迫る。

つまり、挨拶とは「自分の心を開いて相手に迫る」という意味。

そして、「迫る」とは、相手に抵抗なくぴったりくっつくということ。

従って、話した言葉が、相手の響くところ、欲しいところ、痛いところ、痒いところへピタッと当たる、これが挨拶。立派な挨拶というのは本当に難しい。


だから、相手の心深くにピタッと的中した言葉を評して「挨拶痛み入ります」「一言の重み千金に値す」という。



「時に中る」には、「兆し」を捉えることも大切。兆しを捉え、事前に備えることも必要である。


物事は完璧に制御できないからこそ、上手く対応することが大切。

時中。時に中(あた)る。

6月のテーマ。

東洋思想◇「小学」という古典


800年前に朱子(しゅし)と劉子澄(りゅうしちょう)が、四書五経や他の古典から、日常生活における基本的な教えを選出し、それを約 250項目にまとめたもの。


江戸時代の主流だった朱子学とも関係が深く、武士の家庭教育と一般家庭の子女教育を通じて日本人の心に深く浸透・実践された。


幕末に日本を訪れた欧米人は、日本人が実に礼儀正しく、躾の行き届いていること、明るさと清潔さに感嘆し、「東洋の君子国」と呼んだ。

イエズス会のフランシスコ・ザビエルも、「今まで世界を見て来たが、こんなに勤勉で礼儀正しく親しみ合い、名誉を重んじる民を見たことがない」と言った。


列強の植民地支配から日本が独立を堅持できたのは、国民が「小学」の教えから人間性を育んでいたことも忘れてはならない。


▪️小学

「古(いにしえ)の小学、人を教うるに、洒掃(さいそう・掃除)、応対、進退の節、親を愛し、長を敬し、師を隆(たっと)び、友に親しむの道を以てす。

皆身を修め、家を齊(ととの)え、国を治め、天下を平らにするの本(もと)と為す所以なり」。


訳)「小学」において、まず人を教えるのに掃除、応対、進退の勘所の会得すること、そして親を愛し、目上の者を敬い、先生を尊び、友と親しむことが大切。

その道を教えることは、自分の身を修め、家を斉え、国を治め、天下を平らかにする根本となる。


・洒掃とは掃除のこと。

日本神道の精神は、清く、明るく、直き心。掃除は、人間が本来持っている明るさ、清潔を好む心、素直な心を引き出すことであり、それを人間を創る基本とした。


・応対とは挨拶のこと。

親が赤ん坊に毎朝「おはよう」と声を掛け続けていると、成長するに従い「おはようございます」と子供は挨拶を返すようになる。

これが応対の基本である。習慣は第二の天性である。幼い頃に習慣化すれば生涯失われることはない。 


・進退とは立ったり座ったり、進んだり退いたりといった作法のこと。

まず「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」。自分の脱いだ靴をきちんと揃えること。自分の足元から整える。

玄関とトイレを見れば、その家の家風が大体分かる。


洒掃、応対、進退は習慣とすることが大切。少 日々繰り返し、無意識で出来るようになること。


己を修めるための第一歩。

・修養徳性を磨き、人格を高めること。

・修業学術・技芸を習い修めること(資格・卒業等がある。修得に重点を置く)

・修行精神・肉体の鍛錬(努力に重点を置く)


カール・ヒルティは、「人間の真実の正しさは、礼節と同様、小事における行いに表れる。小事における正しさは、道徳の根底から生じるものである。

これに反して、大袈裟(おおげさ)な正義は単に習慣的であるか、あるいは巧智に過ぎないことがあり、人の性格について未だ判断できないことがある」と説いた。


その人の大袈裟な正義の主張より、何でもない日常の言動に心を留めたい。


偉大な修行というと、どんなすごい事をするのか、人間離れしたことをするのかと思う間は、まだ何も分かっていない。

日常事実の工夫に徹することが偉大な修行なのである。


だから、挨拶(自らの心を開き、相手に親しむ)、脚下照顧(靴を脱いだら揃える)、作務(掃除。丁寧な準備と片付け)、そして物事への応対と挑戦等を大事にするのだ。


昼飯は食べ終わっただろうか。

丁寧に片付けて、歯を磨こう。


午後も健康と健闘を!

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