タグ:愛

第451話◇宝物


造化の道理に根ざし、己の志を掲げ、私たちは様々に志を形にしていく。

素直な心は真善美を願い求める。


日々の生活において、

私たちにとっての宝物とは何だろう。



大切な人の笑顔

果たせない夢

ありふれた愛

叶わない想い

心に刻まれた思い出


これらが宝物でなかったら、一体何が宝物というのか。




弱いフリをしたり悪ぶったりする必要はない。

どこまでも強く強く。


失ったもの、

手に入れたもの、

心に刻んだこと、


全部受け止めて

自分の心に強く素直に生きる。

FullSizeRender


第435話◇力と愛


頭の回転が速くて理知的だが、冷たい人がいる。

仕事はとんでもなくできるが、冷たい人がいる。


そういう人を見ていると、冷徹にならなければ人間は力を会得できないのか…と思うことがあるかもしれない。


しかし、それは大きな間違いである。



人間の意識を高めるものは、偉大なものや尊いものに対して抱く「敬・愛」の心、その表裏として己の未熟さを恥じ入る「恥」の心である。


力は様々あるが、突き詰めればその力の源は「真理」である。


真理は冷徹にならなければ会得できないのか?


寧(むし)ろ逆である。

真理に対する敬愛があるからこそ、求める力に対する深い探求ができ、その真摯な努力の結果、力を会得するのである。


力と愛は本来一つであって別々のものではない。

だから、真理を会得した人間、本物の強い人間に、冷たい人はいない。



これを敷衍すれば、

真理を会得しようと結ばれた師弟関係が「冷厳」だけである道理はない。

お互いの、真理に対する熱烈たる姿勢が融合・牽引・共鳴するところに、師弟道の本質がある。


「芸道に対して厳しい師匠」というのは、自分からも弟子からも甘えた心やふざけた心を一掃し、真心をもってその芸道を歩んでいくという、道に対する深い敬愛の表れである。

FullSizeRender


男と女◇陰陽相対原理(1)


例えば栄養。

身体に良いからと言って食べ過ぎてばかりいたら、その栄養は同時に毒である。身体に悪いものとなってしまう。


例えばお金。

裕福になれば廃頽へ進みやすく、貧乏といえば成功に繋げることもできる。


それぞれ逆のようだけれども、別々にあるのではない。表裏というだけのこと。



陰陽相対原理からすれば、必ず表裏一体である。


弱い中に強さがあり、悪い中に良さもある。表がダメなら裏を上手く活かしていくことが「道」というもの。


だから、必ず道を開くことはできる。

艱難辛苦があれば必ず幸福がある。「災い転じて福となる」とはそういうこと。


そこに熟達すれば、窮することはない。



それなのに、

自分の長所に蓋をして、短所に潰されようとしているドMの男と女がいる。

相手の長所を伸ばさず、短所をほじくり返して文句ばかり言う男と女がいる。


男と女は、

お互いの長所短所を補い合い活かし合い、一つになってどこまでも高く成長していくもの。



そんな関係性のふたりの存在が、

愛そのもの。

男と女◇愛


愛は敬と切り離せない。


敬のない愛は、弱者やペットに対する「愛おしい」「大好き」と同じようなもの。それでは支配関係になり下がってしまう。



「この口座の金は好きに使っていいぞ。お前を愛しているから」

「あの指輪を買ってあげる。愛しているから」

「店を持たせてやるよ。愛しているから」


金や物や地位などは、徳を補助するものにはなる。しかし、「人の愛」に値するものではない。

人の愛はそうではない。



愛している…の根底には「敬(うやま)い」が必要だ。


自分より遥かに尊く敬える相手だから、「参った」となる。

(惚れた相手や、どうしても敵わない相手にも「参った」と言うでしょう?)



敬い、そして参った相手には「あの人に仕えてみたい」という気持ちにもなる。


男と女、お互いに愛し合っているのなら、

お互いに「仕え合う」関係である。


仕え合う…

仕合(しあ)う…

仕合(しあ)わせ…


幸(しあわ)せ…は、ここから来ている。


「幸(しあわ)せ」とは、男と女が仕え合うこと。



そして、男も女も、相手を愛するようになれば、相手の徳が厚く尊くなるように、自然と自分の立居振舞が変わっていく。


お互いに感化し合い、どこまでも成長していける。



人の愛とは尊いもの。

人間には「敬愛」という心がある。


そのうちの「敬」とは、自分より優れたもの、崇高なものに、少しでも近付きたい、献身したいという情であり、それが「宗教」の根本。


また、崇高な存在と自分を比べて、自分はまだまだ未熟である自覚し、恥らい、向上心を持って自分を正して行こうという情も起こる。

それは「道徳」となる。


従って、「敬」を外に発すれば宗教となり、内に省みれば道徳となる。

それぞれの本質は、同じく「敬」である。


だから、宗教とは偶像崇拝でもないし、神学でもない。



宗教の本質というのは、

一人の人間の安心立命を見出し、人類の幸福と平和を期待する願いに応えようとするものである。


そして、人類の今を照らし、未来を照らす道筋となるものである。


従って、宗教人であるからには、大いなる慈悲心や見識を持ち、これらに応えなくてはならない。


しかし、宗教への偏見を持つ人が多いのは、こう言った宗教の本質に応えず、本質から逸脱している既成宗教・新興宗教が多いからではないか。



この宗派だけが正しいとか、この教えでなければダメだというような差別法門を排除し、良いものは全て取り上げて、各々好むところに従って行なっていくのが普法というもの。



私は、「敬」という情から、差別や偏見を超えて、素晴らしい人だというのであれば、その人の主義主張や職業に囚われず、どんな人にも会ってみたいと思うし、人にもそう勧める。


「自分一派」にこだわるのは、とても勿体(もったい)ない。



そんなことより、

本質を見据えたい。


慈悲を大切にしたい。


↑このページのトップヘ