412話◇恥とは何か


恥とは、耳に心と書く。

耳とは柔らかいという意。若しくは人々の言葉を様々に聞くという意。

そういう耳の心、つまり、柔らかい心、練り上がらずにフラフラとぐらついている心を恥という。


鍛錬を積み、肚が坐り、志や覚悟が決まっているのなら、心はフラフラとぐらつくものではない。グズグズと思い悩むものではない。


心がフラフラ、グズグズしているから、道理や己の道義に背(そむ)く行いをして、面目(人に合わせる顔)を失ってしまう。



「恥」は身体にも現れる。

覚悟や志義が決まっていれば、身体の軸も定まり、動きの中においても芯がブレることは少ない。

何気ない所作においても、凛とした雰囲気を感じさせる人は、身体の芯がブレていないもの。


稽古において、身体の芯がどうしても定まらない人は、より一層の体幹の筋トレ!ではなく、今一度稽古に向かうその姿勢や目標を確認して欲しい。芯が定まらない原因は自らの心に求めるのも一興。




己の志や道がはっきりしているのに、グズグズと思い悩む人たちもいる。

彼等は情に脆い。

しかし、情に脆過ぎたり流され過ぎてたりしていては、志義を見失う。

優しい男たちが陥りやすい過ちである。


そもそも「過(あやま)ち」とは、「過(す)ぎる」と書く。「過ぎたるは猶(な)お、及ばざるが如し」と論語にもあるように、過ぎることは足りないのと同じように正しくない。しかし、「足(あやま)ち」とは読まないように、足りないより過ぎてしまった方が始末に悪いのだ。



情に厚いのは弱さではない。

しかし、情に脆過ぎるのは、やはり過ちである。男が反省すべき弱点である。



そうは言っても、男は「己を知る者のために死す」という一面も持つ。

自分の気持ちを分かってくれる人がいるというのは、何ものにも代え難い嬉しさがある。その人に対しては、弱くもなる。



誇り高く、たまに弱くなり、そして恥を知る愛すべき男たちとの稽古も、何ものにも代え難い。笑

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