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522話◇無名時代に為すべきこと


無名時代に為すべきことは、志を立てて力を蓄えること。


FEG人物論」にも言うように、1.まず元気(気力/骨力)があることが大前提である。そして、次にすべきことが、2.「志義」を明確にすること。


全ては志より始まる。


志とは「こうなったらいいなぁ」という希望や望みではない。

「必ずこうする!」と肚をくくること。決意することである。

肚をくくったら、志に向けて実際に足を踏み出せ、と人物論は大成への道筋を示す。



そもそも、なぜ無名時代に「志を掲げろ!」と言うのか。


その理由はこうだ。

無名時代には、まず学ばなければならない。

学ぶとは、よく観て真似して反省して、それらを繰り返し繰り返し数をかけて質へと転化し、新たな創造へと向かうための基礎と型を会得することだ。

この時期を経て、自ら様々に創造活躍し、やがて後進達が後を追うような道を示すようになる。


つまり、学ぶとは受け身になって教わることではない。自ら学び取るという「意志」が必要である。そうでなければモノにならない。

そういう真摯な意志が内にあるからこそ、謙虚になって素直に真似ることができるのだ。



自身が学び、力を蓄え、実力が付いてくると、周囲から色々な仕事を頼まれ、頼られるようになる。おいしい話もやって来る。また、良くも悪くも色々な人が寄ってくる。

そういった時、もし志が無ければ、美味しい誘惑には抗えない。フラフラと損得に流されやすい都合のいい男に成り下がる。


無名時代には、おいしい話などやって来ない。だからこそ「志」を明確にしておくのに絶好の機会だ。誘惑ではなく自分と向き合える。



志を掲げれば自ずと道はできる。義に根ざし、今と志を結ぶ。それが進むべき道となる。



荀子も老子も孟子も易経も、先哲は「志は無名時代に!」と道筋を教え、エールを送ってくれているよ!w

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第442話◇立ち上がったあなたへ


珈琲飲む?



…あなたの、「頑張っても上手くいかない」という境遇や愚痴には深く同情するよ。


しかし、挫けたりへこたれたりするようでは、その憂うるところの小ささ、ひいては「志」の小ささを笑われても仕方ない。



そもそも、「学ぶ」ということは、「造化の道理」を通じて、様々な物事の道理や人生の道理を明らかにし、それに乗じ自分を活かすことにある。


そのための「志」とは、必ず、

⚫︎どれだけの人やモノを兄弟とし仲間とするか。

⚫︎自身の内面的には道義の体現者であること。

⚫︎社会的には生活や社会を進歩発展させる業であること。


これらを期して考えなければならない。



そうであるならば、

世俗の栄誉や恥辱、褒め言葉や批判などは、男が浮かれたり憂えたりするものとまでは言えない。


主体性と創造性を無くすことなく、日々己を新たにしていく生活に、お互い努力していこう。

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420話◇本(もと)を立てる


「妙な遠慮などしなくていい。隠したりせずに、堂々とやりたいようにやったらいい!」

その通りなのだ!



しかし、その前に身命を投げ出すに足りる志(理想や目標)を見出していなければ、あちこちでちょっと面白いものを探してウロウロするだけだ。


志を見出すには、自分の才能や特質、生まれながらの持ち前(性)を自覚して、それを開発鍛錬していかなければ、誰かに流されて漂流しかねない。


自分の性(生まれながらの持ち前)を自覚するには、自分の真心・素直・誠等に返らなければ、甘さや幼稚さが前面に出てしまい、自分を見失いがちになる。


自分の誠に返るには、人道や道理を弁(わきま)えておく必要がある。



だから、道場でも「東洋思想」を学んで道理や人道を重んじて、甘さやいい加減な態度を一掃し、「自分は何ができるか」より前に「自分は何であるか」を明らかにし、志義を立てて、そのために必要な技術や知識を身につける。



道理を明らかにし、

真心・誠に返り、

自分を把握すれば、

志は掲げられ、

進むべき道は自ずから生ずる。



本(もと)立ちて、道生ず。

本(もと)立たなければ、取っ散らかる。


昼間は己の道を歩む。

夜は本(もと)を確認してみる。


だから、夜は道場(道を確認する場)に稽古しに来るのでしょう?笑

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第361話◇教える側と学ぶ側


あなたの口から、「自分を追い込んだら自殺してしまうかも」という言葉を聴いたのは驚きでした。

ただ、あなたが自分を厳しく追い込む性格の原因の一端は、私にあるかも知れません。


私は以前、人を生かさず殺さず、絶望の淵まで堕としてそこから這い上がること、這い上がらせることの繰り返しが教育だと考えていました。


「獅子はその子供を千尋の谷へと突き落とす」と言う。そのから這い上がってきた生命力の強い子供だけを育てるというもので、深い愛情があるなら、わざと厳しい試練を与えてその才能を試し成長させるべきという考えです。


しかし這い上がってきた者というのは、その者の甘さや幼稚さを捨てさせ、力強く豊かに生きていくために、たまたまその時適した方法であったという者が多いのです。

それが、他の人や他の環境に適応するとは限りません。


しかし、相手や時を見ずにそのやり方を通せば、這い上がれる極めて少数の者は強く豊かになり、這い上がれない大多数の人は潰れ、私との関係がトラウマになることも少なくありません。

このやり方では、本当に極少数の者しか育ちません。

そうしてきたからよく分かっています。



このやり方は何か悪いのか?


未熟なやり方であると今は考えます。

なぜなら、厳しくすべき時に厳しくする、励ますべき時に励ますというような、応病与薬(時に応じた適正な応対)になっていないからです。常に厳しいのですから。


物事や状況は変化する以上、その応対が厳しさ一つなら、それは指導者の独善となり、結局のところ破滅へ向かいます。



確かに、何かを学ぶときや、自分を変えていくときには、その志と心が浮ついていてはモノになりません。

だから、志と心の在り方を定めることについては真剣になります。



しかし、志や目標を共有しその筋道を立てた後、何をどう学ばせるかは、「応病与薬」であるべきで、決まった処方があるわけではないのです。

また、その人が何処まで強く大きく豊かになるかは当人の志と器量の問題であって、一律的な目標を設定するというのは本筋ではありません。


人格教育でも、知識・技術教育でも、その本筋は、その人が造化(創造変化)の働きを、その資質や環境に応じて様々に具現化(進歩発展・包容深化)していく力の拡大にあります。

ですから、教育修養を重ねれば重ねるほど、義は確固たるものに育ち、志は高くなり、様々なことに柔軟に自分を発揮しながら応対し、また挑戦することが巧みになるのです。そうでなければ、何のための学問・教育・経験でしょうか。



例えば先哲の英知は、学問や芸事におけるその道筋を「蔵→修→息→遊」「守→破→離」という形にしてきました。




志と筋道が立ったなら、臆せず進むことです。時に応じて弱・悪を去り、強・善を選び、至らなければ反省して態度を改め、そしてまた進むのです。

そのためには、何が良いとか悪いとかではなく、時に応じる。その時にピタッと的する(時中「易経」)ことが大切になります。それが志(目標)や造化の具現化へと向かう力だからです。


だから、志を立てずに学問や事業に取り組んだり、時に応じることなく我を通しても、大したものにはなりません。



もちろん、志を立てずに、ただ成功を望むという気持ちも私なりに分かります。


しかし、

何事もそんな浅はかで狭いものではありません。

学問でも事業でも人間関係でも、もっともっと強く深く広く高く、そして尊きものです。

少なくとも、そうあるべきだと考えています。



教育者にとって大切なのは、「厳しく」することでも、「励ます」ことでもありません。


大切なのは、

自ら手本を示すこと。

厳しくすべき時に厳しくすること。

励ますべき時に励ますこと。



そして、学ぶ側が事を成していく本筋は、

「志を立て」

「時に応じ」

「感謝を忘れず、臆せず進むこと」です。


では、今夜も稽古を始めましょう。

351話◇あなたの志は何ですか?


入門希望者には、質問があります。

あなたは、自分の立場(学生、社会人、夫、妻、父、母、経営者、主任、部長)の自覚はありますか?


「はい」と答えた皆に、

もう少し質問させて下さい。



問)あなたの志は何ですか?




もし、自分の立場に自覚を持ちながらも、己の志を答えられないとすれば、

それは、用意された役割に乗って生きているからかもしれません。


もちろん、義がなくても、志がなくても、役割さえ与えられれば生きていくことはできそうです。


志義を掲げて生きている男と、

志義を持たずに生きている男。



入門希望者…様々な男がいます。

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