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第361話◇教える側と学ぶ側


あなたの口から、「自分を追い込んだら自殺してしまうかも」という言葉を聴いたのは驚きでした。

ただ、あなたが自分を厳しく追い込む性格の原因の一端は、私にあるかも知れません。


私は以前、人を生かさず殺さず、絶望の淵まで堕としてそこから這い上がること、這い上がらせることの繰り返しが教育だと考えていました。


「獅子はその子供を千尋の谷へと突き落とす」と言う。そのから這い上がってきた生命力の強い子供だけを育てるというもので、深い愛情があるなら、わざと厳しい試練を与えてその才能を試し成長させるべきという考えです。


しかし這い上がってきた者というのは、その者の甘さや幼稚さを捨てさせ、力強く豊かに生きていくために、たまたまその時適した方法であったという者が多いのです。

それが、他の人や他の環境に適応するとは限りません。


しかし、相手や時を見ずにそのやり方を通せば、這い上がれる極めて少数の者は強く豊かになり、這い上がれない大多数の人は潰れ、私との関係がトラウマになることも少なくありません。

このやり方では、本当に極少数の者しか育ちません。

そうしてきたからよく分かっています。



このやり方は何か悪いのか?


未熟なやり方であると今は考えます。

なぜなら、厳しくすべき時に厳しくする、励ますべき時に励ますというような、応病与薬(時に応じた適正な応対)になっていないからです。常に厳しいのですから。


物事や状況は変化する以上、その応対が厳しさ一つなら、それは指導者の独善となり、結局のところ破滅へ向かいます。



確かに、何かを学ぶときや、自分を変えていくときには、その志と心が浮ついていてはモノになりません。

だから、志と心の在り方を定めることについては真剣になります。



しかし、志や目標を共有しその筋道を立てた後、何をどう学ばせるかは、「応病与薬」であるべきで、決まった処方があるわけではないのです。

また、その人が何処まで強く大きく豊かになるかは当人の志と器量の問題であって、一律的な目標を設定するというのは本筋ではありません。


人格教育でも、知識・技術教育でも、その本筋は、その人が造化(創造変化)の働きを、その資質や環境に応じて様々に具現化(進歩発展・包容深化)していく力の拡大にあります。

ですから、教育修養を重ねれば重ねるほど、義は確固たるものに育ち、志は高くなり、様々なことに柔軟に自分を発揮しながら応対し、また挑戦することが巧みになるのです。そうでなければ、何のための学問・教育・経験でしょうか。



例えば先哲の英知は、学問や芸事におけるその道筋を「蔵→修→息→遊」「守→破→離」という形にしてきました。




志と筋道が立ったなら、臆せず進むことです。時に応じて弱・悪を去り、強・善を選び、至らなければ反省して態度を改め、そしてまた進むのです。

そのためには、何が良いとか悪いとかではなく、時に応じる。その時にピタッと的する(時中「易経」)ことが大切になります。それが志(目標)や造化の具現化へと向かう力だからです。


だから、志を立てずに学問や事業に取り組んだり、時に応じることなく我を通しても、大したものにはなりません。



もちろん、志を立てずに、ただ成功を望むという気持ちも私なりに分かります。


しかし、

何事もそんな浅はかで狭いものではありません。

学問でも事業でも人間関係でも、もっともっと強く深く広く高く、そして尊きものです。

少なくとも、そうあるべきだと考えています。



教育者にとって大切なのは、「厳しく」することでも、「励ます」ことでもありません。


大切なのは、

自ら手本を示すこと。

厳しくすべき時に厳しくすること。

励ますべき時に励ますこと。



そして、学ぶ側が事を成していく本筋は、

「志を立て」

「時に応じ」

「感謝を忘れず、臆せず進むこと」です。


では、今夜も稽古を始めましょう。

東洋思想◇「呂氏春秋」夏の節 メモ1


・欲するものや願うものを得られないのは、道理をわきまえないからである。道理をわきまえないのは学問しないからである。

師の価値を判断するには、道理や孝・忠、品徳を見る。自ら卑しむ師は尊重されず、師を卑しむ者は師に従わない。


・師のつとめは、智を尽くして道理と正義を説いてよく導くことであり、相手の歓心を得ることではない。そのためにはまず手本を示すことである。


・天は人間に耳目口心等を与えた。しかし学び鍛えなければ、それらを持っていない者にも及ばない。

だから学問とは、何かを足し増やすことではなく、鍛錬修養してその人の持ち前の天性を遂げさせることである。


・口先だけの弁舌ではなく、発言にはしっかりした根拠を持たねばならない。そして、いつも学問の大本に立ち返ること。


・弟子が師の世話をする時は、気持ちを楽しませることを第一とする。亡くなられたならば、四時の祭りを絶やさぬよう敬して供養する。

弟子の態度はキリッと恭しく、顔つきは穏やかで、言葉は丁寧に。立居振舞は素早く、しかもきちんと。


・学問とは学派の発展のために力を尽くし、伝統をより立派にする。だから、教育とは道義を実践する要であり、学問するとは知性を磨き上げる要である。

道義を実践する要は、人に利益を与えることで、その要は教育を与えることである。

知性を磨き上げる要は、自己の完成であり、学問と実践により人物が出来上がれば、どんな地位や場所にいても力を十二分に発揮する。


・教育法の基本は、まず師が手本を示すこと。指導の仕方は「安・楽・休・遊・粛・厳」の6つ。

1.「安」教育というものは、まず弟子を「安心」させなければ始まらない。師の言う事ではどうも安心出来ないというのでは教育にならない。

2.「楽」師の教えを受けることが「楽しい」ことが大切。楽しまなければ学問も深化しない。

3.「休」疲れが癒され、救われ、気が休まる。弟子がほっと一息つけて、学問の有難さを感じさせるような先生が欲しい。

4.「遊」「休」をもっと積極的にしたもの。学に遊ぶ。子供が無心になって遊ぶように、学問の中に遊ぶ。そもそも「遊(游)」とは、何の抵抗もなくゆったりと自然に流れていく黄河のダイナミックさを表す。

5.「粛」学問との一体感が出てくると、自ずから内面的に粛(つつ)しむようになる。

6.「厳」内面的に粛(つつ)しむようになると、学問が意義深いものになる。本人が学問と一体感を得れば得るほど、学問の本質や本義に触れて「厳粛」になる。

これら6つを学問・教育に得れば、外道は塞がり、人間はいかに生きるかという「理義の術(みち)」が明らかとなる。


・師弟の心は一つでなければならない。

師は弟子を見るのに自分を見るようにする。自分に振り返って教えるから、人を教えることに情理を尽くすことができる。人に教え施そうとする者は、必ず自分にも行ってみることである。

このようにする時、師と弟子は一体となる。

東洋思想◇学問・教育の六義


六義とは、「安・楽・休・遊・粛・厳」。

これは諸子百家の衆知を編集した「呂氏春秋」に書かれている。


「達師(たつし)の教えは弟子(ていし)を安(やす)んじ、楽しみ、休み、遊び、粛(つつ)しみ、厳(おごそ)かならしむ。此の六者を学に得れば、邪僻(じゃへき)の道塞(ふさ)がり理義の術(みち)勝つ」



1.「安」→教育というものは、まず弟子を「安心」させなければ始まらない。師の言う事ではどうも安心出来ないというのでは教育にならない。



2.「楽」→師の教えを受けることが「楽しい」ことが大切。楽しまなければ学問も深化しない。

「論語」も「これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」(知る者は好む者に及ばない。好む者は楽しむ者に及ばない)と言う。


「好む」と「楽しむ」の違いは何か。

「好む」とは好き嫌いの感情、本能的意味合いが強い。そこに理性や教養が加わると「楽しむ」となる。

例えば、お茶。

お茶が好き、に理性や教養が加わると「茶道」となり、好みも洗練されてくる。それが「楽しむ」である。


先生が魅力ある人だと、その先生が教えてくれる科目は数学でも古典でも世界史でも楽しくなる。

しかし、先生がつまらない人間だと、楽しい科目も嫌になってしまう。



3.「休」→この漢字は「人」が「木」の下に立っているという字。旅人がその旅の途中に木陰を見つけて一息ついている状態。疲れが癒され、救われ、気が休まる。心身がほっと一息つけるという文字。


学問も同じ。弟子がほっと一息つけて、学問の有難さを感じさせるような先生が欲しい。



4.「遊」→「休」をもっと積極的にしたもの。学に遊ぶ。子供が無心になって遊ぶように、学問の中に遊ぶ。遊学。


そもそも「遊(游)」とは、何の抵抗もなくゆったりと自然に流れていく黄河のダイナミックさを表す。


学問・芸道は遊ぶこと、優游自適(何の抵抗もなくゆったり自然に流れていくこと)することが大切。



5.「粛」→学問との一体感が出てくると、自ずから内面的に粛(つつ)しむようになる。



6.「厳」→内面的に粛(つつ)しむようになると、学問が意義深いものになる。本人が学問と一体感を得れば得るほど、学問の本質や本義に触れて「厳粛」になる。



このように、学問・教育の方法論は、安・楽・休・遊・粛・厳の6つに帰する。

これら6つを学問・教育に得れば、邪(よこしま)になったり僻(かたよ)ったりする外道(げどう)は塞がり、人間はいかに生きるかという「理義の術(みち)」が明らかとなる。

世人余話◇学問に必要なものと、知識人の悲哀


学問に必要なものは、感激である。


私たち人間は、知性・徳性・情緒・意思・直感・気品・風格等、人格を形成する内容が豊富な生き物である。

しかし、感激に根ざさない学問は、面白くないだけでなく、人格を創造・展開・化成していく力に乏しい。


知識人と呼ばれる人がいる。

ここでは、「外部の事実を観察し、分析・批評・解説するという知性が表面に出過ぎている人」をそう呼ぶことにする。


知識人は、自己や物事を創造化成していくことは苦手なことが多い。


それは、学問の求道に対する姿勢にある。

知識人の学問には、決まった型がある。

それは、自らは修行したりするのではなく、あくまでも観察者の立場を保ち、調査したり資料を集めて分析・比較・批評して、私見を加えるというやり方である。


この学問の型は大切である。科学はこの型で発展してきた。

ただ、この型は機械的であり、知性の操作にとどまる。事象を事実として「知る」ことは出来るが、「道」という「造化の実践」には結びつかない。


従って、自己人格の修養鍛錬や、周囲の人々への薫化(徳により人によい影響を与えること)とは無関係なものである。


例えば、いくら「論語」を勉強しても、知識や理解が深まりこそすれ、胆力や実行力が高まるわけではない。

かえって、孔子の批判材料ばかり見つかるかもしれない。

また、いくら科学を勉強しても、物事や事象の理解が深まりこそすれ、安心立命が得られるわけではない。

かえって、自己を喪失するかもしれない。



そもそも人間は、哲学的・実践的に日々生まれ変わっていく。毎日毎日、自分を創造・変化・展開させていく。


知識人の学問の型は、知識は広がるが、自己人格の修養鍛錬が薄れ、徳性・情緒・意思・直感・気品・風格等、人格を形成する内容のない、非常に小さな器量の人にとどまる恐れがある。

ここに、知識人の悲哀がある。


しかし、学問には別の型もある。

それは、実際に物事の中に飛び込んで、あらゆる事を体験し、人間の艱難辛苦・喜怒哀楽・利害得失・栄枯盛衰等の理法を会得して心眼を開き、自己や家庭や社会の興隆に寄与していくやり方である。


学問の求道には、どちらの型も必要である。


そして、感激に基づいた学問であってこそ、考究・求道に値する。

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