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東洋思想◇「学」とは〜呂氏春秋よりエール〜


「凡(おおよ)そ学は能(よ)く益(※)するに非ざるなり。天性を達するなり。

能く天の生ずる所を全くして之(これ)を貶(へん)することなき、是を善(よ)く学ぶという」


益(えき)する付け加える、増す


訳)学というものは、何か付け加えるというような手段的なものではない。もともと資質として備えているものを発達させるためのものである。

親が生んでくれた自分自身を全(まっと)うして、それを貶(おとし)めない、いい加減なことをしないことを、よく学ぶという。



「此(こ)れ之(これ)を学に得しなり。凡そ学は必ず業を進むるを務(つと)む。心すなわち営(まど※)うこと無し」


営(まど)う惑う、迷う


訳)学問というものは、自身に与えられている資質を伸ばして発揮していくことである。だから、実生活で実践すべく努力することになる。

努力を重ねていると「一心は万変に応じる」ようになり、「先が分からずにどうしていいか分からない」というように惑うことが無くなる。


教える方は、

「善く教える者は、徒を見ること己の如(ごと)く、己に反(かえ)りて以(もっ)て教える。教えの情を得るなり。

人に加える所は必ず己に行うべし。此(かく)のごとくなれば師徒、体を同じくす」


訳)よく教える者は、生徒(学ぶ人)を我が身となって教える。生徒を自分と同じに見て教える。そこに、教えの情(人間味)が入る。

人を教えようと思えば、まず自分が実行しなければならない。そうなって初めて先生と生徒が一体になる。



人の力、学の力、教の力は、人格の力となり、その力の大きさは計り知れない。



日々、学んでいるあなたへ、

古典を引用したエールです。

何度か読み返すと、先人達の情味も受け取れると思います。


2,200年以上前からの人達が、皆であなたを応援しています。


私も、いつも見守っています。

第294話◇集中を妨げるもの


物事を極める極意とは、「今に集中する」こと。

今に集中するとは、今取り組んでいる対象と一つになる、同化するということ。


昇格審査で、自分の実力不足を棚に上げ、

「何故追試がないのか。1点足りないだけじゃないか。追試をやってくれ」と言う人がいた。



ある人が、弓の稽古で、三本の矢を持って的(まと)に対峙した。


師の目つきが変わった。

「何本も矢を持つものじゃない。一本目の矢に気合いが入らなくなる。いつでも、一本の矢が的中するように精神統一をしろ。未熟者め!」と一喝。


師の前で稽古するのに、わざと最初の一本を無駄遣いする弟子はいないと思う。

しかし、彼は無意識に怠惰な心を呼び起こす。師はそれを知っているのだ。


この戒めは、昇格試験にも当てはまる。


二本目の矢を持たせることは、時に人を怠惰にさせてしまう。



人にはそれぞれの道がある。自分の資質や才能や個性を「性(さが)」と言う。

己の天性を自覚し、その性に従って歩むことを道と言う。


今夜の稽古に明日の修行を思い、明日になったら夜の修行を想像する。

同じ事を繰り返して、「次はもっと頑張ろう」と思い直したりする。


そんな意識では、自分が「怠惰」に支配されていることすら自覚できないかもしれない。


「今に集中する」…何と難しい事か。笑



中国の武術家、李氏八極拳の創始者である李書文を思い出す。

彼は真剣勝負の場において、殆どの対戦相手を牽制の一撃のみで倒した。

彼は「二の打ち要らず、一つあれば事足りる」と言った。


彼は弟子にも「千招有るを怖れず、一招熟するを怖れよ(多くの技を身に付けるより、ひとつの優れた技を極めよ)」と説いている。


次がある、明日がある、来世がある等と思って取り組んではいけない時がある。



二本目の矢はいらない。


一度の機会で十分。

今に集中。

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