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第366話◇器量


大きな詐欺話を手土産に持って来られること、たまにありますよね。


「こちらを騙そうとしているのでは?」

「軽視されているのでは?」

「舐められているのでは?」

もしもそんな風に思ったら、それは自分の器量がそこまでの男だったと諦めるまででしょう。


問題は、相手や状況にあるのではありません。

そんな相手や状況をも包容する器量が、こちらにあるかどうかです。



器量。

女性にとっての器量とは、その容貌の美しさの度合いを指しますが、男にとっての器量とは、人間としての大きさです。



己の器量を大きく深くするにはどうすればいいのでしょう?

志義を確固たるものにして、あらゆる利害得失・艱難辛苦・栄枯盛衰・喜怒哀楽に臆せず挑み、自分の信念を試していくのです。


立ち止まって静かに考えてみれば、明らかなことです。



では、相手の器量を大きく育てるには、こちらはどう献身すればいいのでしょう?


万一、自分の彼氏さんや旦那さんや上司などに対してそんな気持ちを抱いている女性がいたら、参考にして下さい。


それは、


「相手に対し、敬愛の心をもって誠実に接すること」。


つまり、

臆することなくあらゆる利害得失・艱難辛苦・栄枯盛衰・喜怒哀楽に挑み、自分の信念を試していくよう、本人に知られないように仕向けるのです。



そこは、あなたの器量(人間としての大きさ・深さ)次第かもしれません。笑


よくよく考えてみて下さい。

🔴創造変化8. 2)◇小人脱出(八観六験)


続き。


▪️六験

1.「喜之以験其守」(之を喜ばしてめて以て其の守を験(ため)す)
人間は嬉しくなると羽目を外す。しかし、人間には守らねばならない分とか節がある。それを喜ばされたくらいで外してしまうかどうか。失意の時も同様。自身をしっかり制御できるかどうかが試される。


◇私が羽目を外しやすいときは、忍耐が報われた直後。「六然訓」にある「自処超然」を忘れては足元を掬われる。



2「楽之以験其僻」(之を楽しましめて以て其の僻を試す)
喜びの本能に理性が伴うことを楽という。人間は楽しむと、どうしても僻する(偏る)。癖が現れると公正さを失って物事がうまくいかない。

楽しんでいる時に癖が現れるかどうかが試される。


◇度を超えて楽しめることが、自分の楽しみ方だと考えていた浅はかな時があった。が、自分の中の節度は外していない。場に応じる節度を忘れないこと。

三日三晩飲み続けられる機会と、1時間で切り上げなければならない機会、どちらも全うできること。



3.「怒之以験其節」(之を怒らしめて以て其の節を試す)
人間はどんなに怒っても、締まるところは締まり抑えるところは抑えなければいけない。

人は怒ると感情的になりやすく、本音が出やすい。怒った時に、自制力が失われないかどうかが試される。


◇自制力が試されるのは、怒った時と酔っ払った時。怒っても相手を追い込んではいけないし、酔っても乱れ崩れてはいけない。



4.「懼之以験其持」(之を懼れしめて以て其の特(独)を試す)
恐れおののくような状況に立った時、独立性の維持、信念の堅持ができるかどうかが試される。


◇恐怖やプレッシャーを楽しむことは得意だと思う。心も身体も震えるような緊迫感は好きだ。

自分を見限らなければ大丈夫。



5.「哀之以験其人」(之を哀しましめて以て其の人を験す)
人間は哀しい(切なくて、いたたまれない)時にその人の全てが現れる。人が哀しみに暮れている時、その情を解するかどうか、その人の全てが試される。


◇相手の気持ちに寄り添うと泣きたくなる時がある。それが恥ずかしくて、敢えて寄り添わずに冷静さを保つ。そんなことは簡単。

しかし、そんな生き方は器量の無い男の処世術に過ぎないと思う。

相手の気持ちに寄り添うこと。自分の哀しさや弱さに向き合うこと。そこからどんなふうに自分が変わっていくか。



6.「苦之以験其志」(之を苦しめて以て其の志を験す)
苦しいことにぶつかると、ついへこたれがちになる。志とは千辛万苦に耐えて自分の理想を追求してゆくことである。苦しみに耐えて理想を追求していく粘り強さを持っているか。

苦しみの中にいる時に、その人が志を失うかどうかという「意思の強弱」が試される。


◇「我に艱難辛苦を与え給え」「ライオンは子供を千丈の谷底へ突き落とす」そこでくたばるようなら、その程度の器量・志だったのだ。元気(気力・骨力)を失ってたまるか。

第313話◇血が萎えることはない。


「やることがある」というなら、その生き様を見届けます。

しかし、その覚悟が失われた時は、容赦なく斬って骨を拾いましょう。


途中で挫けてしまうのは、自分の強さを過小評価しているのかもしれません。

人の強さはとは、そんなものではありません。


自ら流してきた血を見て下さい。


この身体に流れる血の力が萎えることはありません。


病原性微生物が人間の身体に侵入してきた時、私たちは戦いを挑みます。

その代表、防衛細胞とも言うべき白血球の戦いを紹介しましょう。


彼らは体内に入ってきた細菌と戦うための言わば兵隊で、生体防御の役割を担っています。


防御の方法は少し変わっていて、細菌を外側から包み込んで細胞内に取り込んで(食べて)しまいます。

また、敵の細菌が毒を出してきたときは、白血球も毒を出して…ではなく、細菌の毒を無力化する抗体や、細菌を動けなくする抗体を作り出してから、細胞内に取り込んでしまいます。


私たちの白血球は、敵を包み込み、自身と一体化してしまう器量が備わっています。



夏バテ?臆病?怠惰?


自らの精神が弱った時、自らの血が戦っているように挑み、戦えばいいのです。


己の器量で敵を包み込み、勝利していく自分がイメージできるのではないでしょうか。


血は、容易に萎えることはありません。

私たちひとりひとり、自分に備わった血の強さを改めて自覚したいと思います。



7/13、月命日に。

論語、里仁編に「徳のある人は孤立したままではいない。必ず協力者に出会い意気投合するもの」という趣旨の言葉がある。


そんな「孤高の人」は確かにいる。


しかし、

周囲の人達から、「オレ達を高みから見下す嫌な奴」としか思われていない人を「孤高の人」と勘違いしてしまうことがある。


そんな孤高の人からすれば、周囲の連中は皆「くだらないことに関心持ったり、騒いだりしている馬鹿な奴等」に見えるのかもしれない。


スカイツリーから見下ろしても誰も何も感じないが、隣の二階家から見下ろされると不快になるように、間近から馬鹿にされると腹がたつのが人情だ。


つまり、

こういう孤高の人とは、ただ周囲の人達と調和できない「器量の小さな奴」であることが少なくない。

「孤高の人」というより「孤独な人」だ。


孤高の人は、孤独ではなく「必ず隣り有り」の人だと、孔子も教えてくれている。


孤高の人とは、

・志があり、

・気魄があり、

・器量が大きく、

・人情味があって温かい。

周囲の人達は、孤高の人のそうした雰囲気に親しみ、敬うようになる。


だから、多くの人たちに受け入れられ、皆から守ってもらえる。



「孤独な人」と「孤高の人」。

孤独な人じゃ、私は楽しくない。面白くない。


人生、何事も楽しめるかどうか。

面白いかどうか。

それを大切にしたい。

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