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455話◇出会いと個性の面白さ


決して義理知らずというわけではないが、人は新しい境遇に入ると自然と前のことを忘れてしまうことも少なくない



さて、人には個性というものがある。その個性は陰陽善悪が渾然として統一されたもの。


トップとして頭角を表す個性を持った者もいれば、人の右腕としてその個性を発揮する者もいる。


面白いことに、

人の片腕としてその本領を発揮する者がトップに立ってしまうと、人格が変貌してしまうことがある。


どういうことかと言えば、自分の個性のまま一国一城の主となれる者もいれば、一国一城の主となると、今まで前面に出すことで生き生きしていた個性が引っ込み、今まで出すことのなかった個性が出てくる者もいる。


人の個性は陰陽善悪どちらも持っているのだから、その人が変わったわけではないが、表に出す側面が変わってしまったので、周囲からは変貌してしまったように見えるのだ。



自分の個性として持っている陰陽善悪。

境遇が変わって、表に出す個性の側面が変わる。

すると、物事に際してとんでもないことをしでかす事もある。

だが本人は、「何故そんなことになったのか分からない」と感じることも多いのだ。


それがまた人生の面白いところなのだが。



一国一城の主となって、自分より人格も実力も下の者とばかり連むようになる者がいる。自分より強いものといるのがどうにも我慢ならなくなる。

しかし、そうなると人格が少しずつ堕ちていく。

金は儲けることができたとしても、代償は大きい。

今の自分で本当にこれでよいのか、と不安につきまとわれる。


そういう者は、人の片腕として生きた方がその個性、本領を発揮できる。生き甲斐を感じることができる。

つまらぬ意地を張らない賢さと勇気があるかどうか


個性とはその人の境遇だけで変化するものではない。

人には必ず相棒が必要なように、相方によっても大きく変わる。


気品があって賢く、どこまでも男を立てて内助の功を惜しまず、周囲の皆を優しく包むような賢妻に恵まれ、素晴らしい人格者になる男もいる。


なんでこんな男がこんな立派な役職を務め上げているのか?と疑問に思う場面も少なからずあるが、その男の背後には賢妻という相棒がいることが多い。


しかし、その妻を失うと男の人柄が一変し、悪い部分の本性が浮かび上がってくる場合も少なくない。



陰陽善悪は相交わって様々に変化していく。

それが人生の面白いところ。


ひとりひとりが、その個性の本領を発揮するためにも、人は人と出会わなければいけない。

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世人余話◇生身の人間関係


人間は文明の利器に囲まれ、便利・効率的になっていくほど、他者への思いやりに欠け、冷酷になる傾向があるという。

なぜか?

人間同士が生身で接触する機会が減るからだ。


すると、他者への想像力に欠ける。その態度が周囲にどういう感じを与えるかという視点を持てない。自分とは違う感じ方をする人間がいることが認識できなくなってしまう。


そんな文明社会では、人間関係の習熟よりも、専門知識・技術の習得に追われる。だから、頭が切れる秀才や、一芸に秀でた者は出てくる。

頭が切れれば先が読めるようになるだけに、かえって相手の身になって考えたり、相手に自分がどう映っているかを想像することを疎かにする。


他者への健全な関心を無くし、自分以外は「ウザい」くなり、利己的になっていく。


そして、それを助長するように、現代社会は「人間を孤立させる仕掛け」に溢れている。


例えばスマホ。

スマホでSNSを利用して人と繋がる。ネットの中に友達は沢山いる。しかし、SNS での人間関係はスマホが介在した擬似的なものであり、直接的な生身の人間関係ではない。


SNSの手軽さは、かえって直接的で全人格な人間関係を阻害して、その関わりを浅はかなものにしてしまう。

SNSというネットの中での擬似的な人間関係をいくら構築しても、直接的な人間関係の構築は上手くならない。人物としても魅力は磨かれない。


他にも、例えばテレビ。

映し出される膨大な情報は、それを観る人間を、様々なことを体験したつもり、分かったつもりにさせるのに長けている。


社会は、孤立を孤立と感じさせない仕掛けに溢れている。



そもそも、テレビやスマホ、ネットが無かった時代は人間関係も情報も微々たるものでしかなかったのか?


否。

古典や、江戸や明治維新期の人物たちの日記に目を通して見ると、途方もないことを成し遂げている。


例えば、自分に学びたい事があり、誰が詳しいか知り得たとする。

今ならネットでも本でも情報はすぐ手に入る。幕末の頃は、何日もかけてその人を訪ね、面会し、教えを乞い、自分の意見を伝え、議論していた。

これはただ出会ったというのではない。時間も金も労力もかけた末の出会いであり、二度と会わないかもしれない出会い一期一会である。


そこには、一つの言葉、一つの表情、一つの仕草をも見逃すまいとする真剣な関わり合いが生まれやすい。お互い、全人的に影響を与え合うことになる。

会う回数は多くない。貴重である。それがかえって濃密な人間関係を築き、お互いのポテンシャルを高め合うことに繋がる。

そこから生まれる感動、感激、高揚、安らぎ等は、直接的な人間関係でなければ得られないものだ。


かつて「サヨナラだけが人生だ」というセリフが流行ったが、直接の出会いの方がはるかにエキサイティングだ。

直接出会い、そこから生まれる感激や感動を享受することは、間違いなく人生の大きな喜びであり醍醐味の一つである。


直接出会う場、直接交流の場に身を晒すことに意識的にならなければ、人生の感激や醍醐味から遠ざかってしまう。

バーチャルじゃ面白くない。


まだ見ぬ人、今日会えなかった人、いつか直接会えるといいね。

その時は、どうぞ宜しくお願いします。

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