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464話◇負けたら優しく


いろんな「負け」がある。


覚悟を決めて挑み、全力を尽くして最後の最後まで諦めず闘って、それでも負けたなら、それは相手が強かったのだ。



今日足りなかったところは、次の勝負までに足しておけばいい。

未熟なところは、鍛えておけばいい。


そのためなら、皆いくらでも協力する。


今日闘ったことは、誇りにしていい。


傷は勲章だ。


そういう負けなら、明日につながる。

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412話◇恥とは何か


恥とは、耳に心と書く。

耳とは柔らかいという意。若しくは人々の言葉を様々に聞くという意。

そういう耳の心、つまり、柔らかい心、練り上がらずにフラフラとぐらついている心を恥という。


鍛錬を積み、肚が坐り、志や覚悟が決まっているのなら、心はフラフラとぐらつくものではない。グズグズと思い悩むものではない。


心がフラフラ、グズグズしているから、道理や己の道義に背(そむ)く行いをして、面目(人に合わせる顔)を失ってしまう。



「恥」は身体にも現れる。

覚悟や志義が決まっていれば、身体の軸も定まり、動きの中においても芯がブレることは少ない。

何気ない所作においても、凛とした雰囲気を感じさせる人は、身体の芯がブレていないもの。


稽古において、身体の芯がどうしても定まらない人は、より一層の体幹の筋トレ!ではなく、今一度稽古に向かうその姿勢や目標を確認して欲しい。芯が定まらない原因は自らの心に求めるのも一興。




己の志や道がはっきりしているのに、グズグズと思い悩む人たちもいる。

彼等は情に脆い。

しかし、情に脆過ぎたり流され過ぎてたりしていては、志義を見失う。

優しい男たちが陥りやすい過ちである。


そもそも「過(あやま)ち」とは、「過(す)ぎる」と書く。「過ぎたるは猶(な)お、及ばざるが如し」と論語にもあるように、過ぎることは足りないのと同じように正しくない。しかし、「足(あやま)ち」とは読まないように、足りないより過ぎてしまった方が始末に悪いのだ。



情に厚いのは弱さではない。

しかし、情に脆過ぎるのは、やはり過ちである。男が反省すべき弱点である。



そうは言っても、男は「己を知る者のために死す」という一面も持つ。

自分の気持ちを分かってくれる人がいるというのは、何ものにも代え難い嬉しさがある。その人に対しては、弱くもなる。



誇り高く、たまに弱くなり、そして恥を知る愛すべき男たちとの稽古も、何ものにも代え難い。笑

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401話◇優しい


「そんな風に言って欲しくない」

「ノーテンキ野郎!」

「お前の思慮も感情も浅すぎる」

そんな風に言われても、それでも寄り添い続ける人がいる。



「相手が聞いてくれないなら、そこまで寄り添うことはない。自分が傷ついてしまうよ」と「論語」の慈悲を感じ、それでも相手に寄り添い、笑顔で励まし続ける人がいる。



プライドがあるからこそ、真心を本当に大切にするからこそ、自分の弱さに寄り添ってもらうことや、同情されることを潔しとしない人がいる。



助けてあげたいけれど、そんな力は持ち合わせてなくて、そんな自分の小ささに唇を噛んで耐えながら、なんとか励まそうとする人や、自分の行為の恥ずかしさに押し潰されそうになりながりも、自分を守るために立ち去る人がいる。




み~んな、愛おしくて、悲しくて、優しい。


み~んな、優しい。

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男と女◇冷たい男、甘い女


その男の強さが、相手の気持ちを汲まずに冷たくいることで得られているとしたら、彼は強い人ではなく、冷たい人。

冷たさじゃ、物事は育めない。



その女の優しさが、相手の気持ちを汲まずに温かく振る舞うことで得られているとしたら、彼女は優しい人ではなく、甘い人。

甘さじゃ、人は育めない。



人は自分の存在感の拠り所がないなら、

そんな自分の手を握ってくれた他者を利用したり頼ったりする。


でもそれも仕方ない。

人は不快な環境が続くと、心一つさえまともであることが難しくなり、さらに寄って立つものを失えば、生きていく事の意味も失うことがあるから。


人が私利私欲を叶えて生きる動物ではなく、人間らしく生きるには、理想も意味も快適さも必要だ。



冷たい男も甘い女も、

自らを把握して理想や志を持てれば、強く優しくなれることもできるのだけれど。


心の霧が晴れてしまえば、何を迷っていたのか思い出せないくらい広く見渡せるようになって、

人の優しさや強さを信じ、頼ることもできるのだけれど。



そして、冷たさや甘さを手放すことができるのだけれど

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