416話◇言葉を振りかざす人は


道徳的な言葉を振りかざす人は、何で嫌がられるのだろう?

道理を説いているのに、何でめんどくさい奴と思われるのだろう?


そういう人は、「人間は弱い面も持つ」という当たり前のことを知らないかの如く振る舞ってしまう浅はかさがある。

そう振る舞う姿こそが、「いい歳になっても人を知らない浅はかな男」「冷たく包容力のない男」「自分を棚に上げて安全圏から出てこない男」等の印象を周囲に与えてしまう。


また、先哲の言葉を振りかざしても、言外に「自分だけが正しい」という心を忍ばせているように見えてしまう。


そして、そんな態度に無自覚であることが多い。

だから、めんどくさがられる。嫌がられる。



それはとても悲しいことだ。



そもそも我々人間は、「造化」の何十何百億年という絶え間ない悠久の努力によって、ようやく生み出された存在である。

その偉大さと、己の未熟さに思い至れば、もっと人には敬意や慈悲や寛容さも以って「接する」ことこそが、人の道であるはず。



接する

そこなのだ。

どのように人や物事に接するかという己の行為こそが、言葉よりも大切である。


優しい言葉を使うなら、深く優しく大きな慈悲の塊のような態度で接して欲しい。

強い言葉を使うなら、威厳ある毅然とした行動を示して欲しい。

偉大な言葉を使うなら、偉大な行動で感化して欲しいと、心の底ではお互いに期待しているのではないか。



正論を振りかざして周囲から弾き飛ばされている人は、己の言葉ではなく、己の行為こそ己の寄るべだと自覚したら、きっと周囲の反応は変わる。




例えば、「孝」という心の本質は、感謝という感情と報恩という意志にある。

そこで、恩に報いるという意志を体現するために、孝心は必ず孝行とならなければいけない。


同様に、自分自身の「意を誠にす」「心を正す」という「大学」の八条目においても、それは「身を修む」「家を斉(とと)のう」「国を治む」と、己の行為とならなければ何も生まれない。何も変わらない。


当たり前だ。



維新を求めるが故に、先人達は「知行合一」「言行一致」を大切にして言葉を慎み、行動に重きを置いてきた。



新年度を迎えるにあたり、

自らの胸に刻むべきは、

「(己の誠に基づく)行為こそ己の寄るべ」である。

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