第306話◇所作ひとつひとつに「意味」があります。しかし、教えることはできません。
所作や技には意味があります。
しかし、教えることはできません。
伝えることができるものと、できないものがあります。
いや、伝えてはいるのです。
ただ、それは各自が自得するよう促すだけなのです。
「それの意味は何ですか?」と聞きたいというのは、「自ら学び会得するという力」を弱くすることになりかねません。
しかし、その力の養成こそが大切なのです。
答えは探すのではなく、自ら見出すのです。
言葉で教えようとすると、言葉を受け取った人は、自分の理解できる範囲で「分かった」と言います。
しかし、多くの場合、その理解は甚だ浅はかなものです。しかも、「言葉を聞いて分かった」という思考回路は、自分の思考を縛りがちです。縛られると創造展開しません。
学んで思索して実践へ。そして、実践から学び、学びから思索し、また実践へ。
もちろん絶対ではありませんが、このような「流れ」も自得して頂ければと思います。
そして、その過程において、臆病・怠惰・卑怯な心は払拭して下さい。
自分を弱くするような、人生を寂しくするようなことは、ここでは許されないからです。
そのために、まずは心の在り方を学ぶこととなります。
ただ、心の在り方については、勉強会に譲ります。
今回は、「その意味は教えられない」ことの理由について。
例えば、漢数字の「一」。これに意味はあります。
一を「ひとつ」「はじまり」と教わり、「分かった!」となります。
でも、受動的で主観的な理解にとどめてしまうと、成長発展しないのです。「自ら学び会得する力」を自分で捨ててしまうのです。
少し「一」の意味を考えてみます。
1.はじまり。最初。
→「一」は、物事を生み出し、最初に行うという意味合いになります。独立独歩の気概、不撓不屈の実践力、元気溌剌です。
「易経」にもあるように、志を持って物事を始めると、そこに力が集まってきます。集まってきた力を一つに束ねていくことで、力はより大きくなっていきます。
2.ひとつ。
→ひとつにする。つまり、物事を集約させる結束力です。多くの人を結束させることのできるリーダーへと展開できます。
リーダーとして、多くの人を結束するためには、まず自分が、人として履み行うべき道を学び、己を省みて自身を明らかにし、他よりも修養努力することが必須(「小学」「大学」「論語」等参考)であると解釈は広げられます。
3.隅から隅まで(広範囲を占める)。
→人としての器量の大きさとは、どれだけ包容力があり、また、包容して親しみ、様々に育んでいけるかどうかです。
些細なことに好き嫌いを言うのではなく、隅から隅まで、一切を内包することができるかどうかです。包容して親しまないと造化につながりません。
4.同じものとして扱う。
5.6.7…と、意味は展開していくものです。
例えば、私達は服を着ます。でも、季節によって身につける服は変わります。身体が大きくなるにつれて、着る服は変わります。何をするかによっても着る服は変わります。
寒さから身体を守るために着ることもあり、
誰かに脱がされるために着ることもあり、
自分を鼓舞するためや、
人と一体感を持つために着ることもあります。
服に「意味」はあります。
しかし、それは創造変化しながら自得するものなのです。そして、本質は一つです。
所作も技も同様なのです。
「変化」するものであり、その源泉は「一つ」なのです。
心得(こころえ)も技も伝えます。そしてそこには「意味」があります。
意味とは、時・場所・志・学び等、他との関係性とそれを認識する私達の主観において意味付けられます。
所作の「意味」を教えるということはできないのです。
その時、その時、また成長に応じて、自得していくものです。
だから、「その意味はね…、」と軽々しく言うことはできないのです。
でも、日常や仕事におけるコミュニケーションは、異なる分野です。
相互に意思疎通を図る試みはとても大切です。
お互いの心がそのまま伝わり合い、ひとつになれればいいのに…、
誰かがその手を挙げたら、いつもその手に重ねる手があればいいのに…、と思ってしまいます。
物事には、
自在な「変化」で応じながらも、その源泉「一つ」を確立しておきたいものです。
道場では、それを学び会得しているのです。
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