2019年06月

525話◇想像力


上司にどう思われているかと想像して悩む。

クライアントから何を言われるかと想像して、また悩む。

プロジェクトに問題が起こらないかとあれこれ想像して、またまた悩む。


悪い方へ転がる可能性のあるもの、つまり、全てのことについて悩むのは、想像力のなせるワザだ。


未来について余計な心配をしたくないなら、事実に基づいて物事を判断することだ。そこに曖昧な要素を持ち込む想像力は、全ての元凶だ。

そんな風に言われる事もあるが、ちょっと極端な見解だ。


想像力より事実を重視すべき事もある。

そして、想像力を重視すべき事もある。


重要なのは、想像力という人間に与えられた力を、自らがコントロールする事ではないだろうか。


コントロールできなければ、想像力にコントロールされてしまう。

想像力を自分の優秀な下僕とするか、それとも、自分が想像力の奴隷となるか。


想像力の素晴らしさも恐ろしさも、帰する所は同じ。

それは、未来がどうなるかを描き出せるところにある。



心の真ん中に自分を置く。

そして、望む未来を描く。

FullSizeRender


524話◇闘う(1


志を貫くため、肚をくくり、

最後まで、油断も慢心もない。

弱気も諦めもない。


最後の最後の最後まで自分を信じる。


相手を畏敬の対象としながらも、

自分を信じて進むのみ。



勝負において「己こそ己の寄るべ」と言えるのは、普段の弛まぬ鍛錬があってこそ。

もし、自分以外を寄るべとするような、主体性と創造性を持ち合わせていないなら男ではない。誰かの人形に過ぎない。


人形では闘えない。



本来、闘うというのは、男の誇りと誇りをかけた熱いもの。

そういう闘いなら、

手加減というのは相手の尊厳や誇りを軽視する卑怯で残忍な態度だ。


相手に対する卑怯な態度では勝負は成り立たない。その態度では、お互いが敗北するだけでなく、男としてのお互いの尊厳と誇りを奪ってしまう。


手加減も同様。もし相手に手加減されたとあっては、男として許すことのできない屈辱を受けることになる。

だから、男同士の闘いに手加減は無用。

当たり前だ。



勝負にあるのは結果だけ。

闘いに勝利した男は、名誉と誇りを手にする。

敗北した男は、そこからまた学び鍛えて這い上がることができる。


学ばない男や鍛えない男は、敗北を味わい続ける。

勇気と誇りを失った男は、勝負の土俵に再び立つことはできない。



誇りをかけて闘う男たちなら、

敗者も勝者も私は大好きだ。


しかし、弱者は……w


弱者から抜け出す方法?

男は、志を掲げ、肚をくくってしまえば、

いつまでも弱者のままでいられるわけがない。


志を果たすための道筋が、何を学び、何を鍛え、何を成していくか示してくれる。

FullSizeRender


523話◇押してばかりではなく、引く


私たちは、自分の関わる分野こそが一番重要だと信じる傾向がある。

だから、「オレの要求を最優先しろ、他は勝手に調整しろ!」と言い張る。


プランナーは、戦略に沿って作った製品こそが一番だと言う。

クリエイターは、賞を取れる美しい製品こそが一番だと言う。

経理担当者は、コストを抑えた儲かる製品こそが一番だと言う。

クライアントは、安くて高性能な製品こそが一番だと言う。


それぞれの立場にある、それぞれの一番。

そして、誰もが自分の要求こそが最重要だと信じている。


「ビジネスは(オレが最優先されるための)闘いだ!」と言って押しまくる。


一歩引いて、もっと高みから全体像を見て、遠くを見通す人は


いったいどこにいるんだろう?w



物事を成していくためには、

他者を引き寄せて繋がり合い、対立や矛盾を克服して、自他を共に生かし合いながら登っていくこと。それが生成化育の道である。


その道筋に則れば、押すべき時と引くべき時、闘うべき時と闘う必要のない時、

それぞれの判断は難しいことじゃない。

FullSizeRender



522話◇無名時代に為すべきこと


無名時代に為すべきことは、志を立てて力を蓄えること。


FEG人物論」にも言うように、1.まず元気(気力/骨力)があることが大前提である。そして、次にすべきことが、2.「志義」を明確にすること。


全ては志より始まる。


志とは「こうなったらいいなぁ」という希望や望みではない。

「必ずこうする!」と肚をくくること。決意することである。

肚をくくったら、志に向けて実際に足を踏み出せ、と人物論は大成への道筋を示す。



そもそも、なぜ無名時代に「志を掲げろ!」と言うのか。


その理由はこうだ。

無名時代には、まず学ばなければならない。

学ぶとは、よく観て真似して反省して、それらを繰り返し繰り返し数をかけて質へと転化し、新たな創造へと向かうための基礎と型を会得することだ。

この時期を経て、自ら様々に創造活躍し、やがて後進達が後を追うような道を示すようになる。


つまり、学ぶとは受け身になって教わることではない。自ら学び取るという「意志」が必要である。そうでなければモノにならない。

そういう真摯な意志が内にあるからこそ、謙虚になって素直に真似ることができるのだ。



自身が学び、力を蓄え、実力が付いてくると、周囲から色々な仕事を頼まれ、頼られるようになる。おいしい話もやって来る。また、良くも悪くも色々な人が寄ってくる。

そういった時、もし志が無ければ、美味しい誘惑には抗えない。フラフラと損得に流されやすい都合のいい男に成り下がる。


無名時代には、おいしい話などやって来ない。だからこそ「志」を明確にしておくのに絶好の機会だ。誘惑ではなく自分と向き合える。



志を掲げれば自ずと道はできる。義に根ざし、今と志を結ぶ。それが進むべき道となる。



荀子も老子も孟子も易経も、先哲は「志は無名時代に!」と道筋を教え、エールを送ってくれているよ!w

FullSizeRender


521話◇理由のあるもの、理由のないもの


昔々、人間は言葉を発明した。

そして、すべての事象を言葉に置き換えてきた。

だから、多くの人間は、物事を論理的な文脈によって理解しようとする。

根拠や目標や理由を求め、納得したがる。


しかし、自然の在り方はそうではない。

自然の営みや宇宙の誕生には、人間が納得するような目的は無いかもしれない。


そこに理由を求めても納得できるかどうかは自分次第でしかない。

自己満足でしかないのかもしれない。


自然の摂理や法則、そこから生まれる出来事に理由を求めても仕方ない。

出来事を純粋に受け入れて、処していくだけ。



「ただ、そう在る」

これが自然の在り方。


摂理や法則に順うだけ。

それだけ。

主観的な理由はないのかもしれない。



理由の在るものと無いものを混同してしまったら、存在しない答えをいつまでも探すことになる。

どんな物事にも理由を求めるという態度は、大自然や宇宙を再定義するような、人智を超えた問いかけである。



事実をそのまま受け入れる。

理由のないものに理由を求めるな。


「今、最も大切なことは何か」

自分の心を真ん中にして、

それを成し遂げていく。


人生に客観的な目的を求めるな。

そんなものはないかもしれない。


もし求めたいなら、自分で決める。

自分の望む方向へ自分を伸ばすために。

主体的に、創造的に。


自分のために、前に進む。

いい天気も悪い天気もあるけどね。


それが空。それが無。

そういうことだと思っている。

FullSizeRender


↑このページのトップヘ