2018年10月

第467話◇素直な心


天邪鬼な心、甘える心、臆病な心で臨むなら、

何をどんなに体験してみても、自分の道は見つからないだろう。


素直になる強さ、己の誠に順う強さを持ち合わせていれば、自分と向き合うことができる。

そうであればこそ、自分の真心を顕現させることができる。


素直でいないと、家族や友達の言葉も態度も、自分にとってウザいものになってしまう。

素直でいれば、「ありがとう」と当たり前に皆に感謝できるだろう。


いつまでも見栄を張ったり天邪鬼だったり甘えたり…、そんな心では自分の真心が傷ついていくばかりだ。


素直に心と向き合えなければ、自分の答えはいつまでも出てこない。

求めるものは虚しいものばかりとなる。

素直な自分が求めたものではない。

手に入れたものは、下世話な損得や世間体を気にしたものばかり…ということになりかねない。


それじゃ、いつまで経っても自分が何者かわからないままだ。



大切なことは、素直であること。見栄や世間体ではない。

そして、強く優しく。

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第466話◇喪失の後に


大切なものを失った人に、もたらされるものがある。それは、視力を失った人が、その聴覚や触覚を驚異的なまでに発達させて再構築した世界のような、今までとは違う視点で築き上げる「新しい世界」である。

それは、失う前には決して予想も出来なかった世界である。


喪失から逃げずに向き合えば、二つの心と出会えるはずだ。

ひとつは、「もうダメだ」という心。

もうひとつは、「これは大きなチャンスだ」と新しい可能性に疼(うず)く心である。


「喪失」というのは、行き詰まった人間が自ら呼び寄せた「救い」であり、新たな「可能性」である…と考えたらどうだろうか。



そもそも、人間の持つ可塑性(かそせい=いかようにも変化して元に戻らない性質)や治癒力・再生力は、肚さえくくれば生半可なもではなく、とんでもなく強く大きいものである。


何かを失えば、何かを掴む容量が得られる。

失ったものにケジメをつけ、新しいことに挑むその勇気があれば、新しい世界で何を掴むか計り知れない。



さて、もし喪失の中にいるなら、改めて自分の癖を一から考えてみる。稚心を去る。そして変えるべきところは変えていく。


過去にケジメをつけ、顔を上げて前を向いて歩いていく。

そうすれば、何度でも自分と世界を新たに築き上げていけるはずだ。

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自分のために仕事も勉強もする。

自分のために生きる。

「誰かのため…」と言うのは、安易な自己満足のための屁理屈に聞こえる。


「自分のため」(利己主義)を徹底的に貫いていけば、他者を疎かにしたら自分も成り立たないと分かる。

利己主義を極めれば、自他は区別されるものではなく、他者との一体感しかない。それは自他共栄そのものだ(超利己主義)。


安易に「誰かのために」と言って、自分を勘定に入れないのはおかしいと思う。それは、そいつが孤独だからではないか。

孤独…。自分の心に自分しか住んでいないというのは、なんとも小さく不徳である。

ただ、それが分かるということは、私も孤独なのかもしれないが。


「孤独でもいいもん」などと言う温(ぬる)い世界の道理では、いつまで経っても誠(真心)が顕現しない。造化が始まらない。


今こそ、「超利己主義ポジティブシンキング」宣誓の時!w

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