2018年07月

第449話◇省みて省いて己に反(かえ)る


毎晩、日記を書くときに自分を反省すると、恥ずかしいことに、未だに己の浅はかさや至らなさに打ちのめされることがある。


でも、己を省みるというのは、臆病者や怠惰な者、他罰的な悪人にはできないことだと開き直る。


臆病者は自分自身の誠を誤魔化すか、己の誠から逃げて外からの刺激にただ反応し、情欲や感情に流される。



ものの道理を知らないと、自分の悪いところや意志の弱いところばかり自覚して、自分自身を嫌いになってしまうことも、自分で自分を苦しめることもある。


だから、真面目で努力家なのに、自分で自分を弱くしてしまい、「自分のことは嫌いだ」という人もいる。



そうではない。


「反省」というのは無理・無駄・ムラを省き、誠の己に反(かえ)ること。

自分の個性/特性を掴み、弱い自分と決別して己を変化させ、成長させること。


そもそも、道理に根ざすこと、自分に反ることを忘れたら、自分を生きることは難しい。


…今、ふと思ったが、自分で自分を苦しめてしまったり、現況が辛い苦しいと言う人程、自分に反(かえ)って自分を定めていくべきなのに、そういう人たちに限って日記書いてない人が多いんだよなぁ…。



閑話休題。

万物を生み出してきた「造化の道理」には、陰陽相対という性質がある。

その性質により、何事も陰陽相対しながら、そこに内在する矛盾や対立を克服して一段上に発展してきた。


従って、心にも身体にも社会にも陰陽や貴賎は必ず内在し、その矛盾や対立を克服するとこにしか進歩発展はない。

だから、その時その時に、それら矛盾や対立をどう克服し、どう表面化させていくかが個人や社会の器量や機鋒(展開力)…、つまり、実力の見せ所である。


それが、日々の選択であり、決断であり、行動である。

迷っていたり、曖昧にしていたのでは何も進まない。


夜、日記を書くために座った時、今日一日の決断や迷いを、己の誠に照らし合わせて確認するのが反省である。


笑うべき時に心の底から笑ったか。

怒るべき時に雷鳴の如く怒ったか。

戦うべき時に全力で戦ったか。

耐えるべき時に必死に耐えたか。

退くべき時に退いたか。

大胆であるべき時に大胆であったか。

慎重であるべき時に慎重であったか…。


己の誠という羅針盤に合わせて、その時その時の状況にピタッと合っていたか。ど真ん中をぶち抜いていたか。

反省の中で、己の誠や明日への指針を見出して、また明日へと自らを進めていく。


それが自分を把握していくことであり、物事を包容しながら成すべきことを為していく力となり、自信となっていく。

これが成長である。


そして、成長するにつれ、己の誠は自分個人を超えてどんどん大きくなる。

何でも他人事…ではなく、何でも自分事になっていく。価値観や視野が広がる。

世の中のことは全て自分の腹の中の出来事としてとらえ、親疎の別や終始本末を踏まえながら、己の誠を貫いていけるようになる。



そうなってくると、物事が難しければ難しい程「面白い!」ということになる。




「日記?ヒマな日は書くこと無いし、忙しい日は書く時間が無い」と言う人もいる。


そんな人にはこう言いたい。


あなたの一日は、記録するに値しないものなのか?

もっと尊いもののはずではないのか?



自分を生かす明日のために!

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448話◇アリバイ証明


アリバイ証明とは、犯罪現場への「不在」を直接証明するのではなく、「他在」を証明することである。

同一人が同時に異なった二ヶ所にいることはできないことから、結果として犯罪現場への「不在」の証明とされる。



そもそも、不明確なものに対して、不存在を「直接」証明することは非常に困難である。


「もしかしたら存在するかもしれない」という様々な可能性を0.0000001%も残さずに、「100%存在しない!」と、不明確なものを明確にすることは難しい。


雪男はいるのかいないのか?

カッパは?

ツチノコは?



敷衍すると、不存在だけでなく、私たちの生活において不可能を証明することも、実はとても難しいことなのだ。


不明確なことに対して、「俺には無理だよ」「そんなことできないよ」と、浅はかに諦める態度はある。

しかし、それは自分で「やらない」と決めただけであって、可能性を自ら手離しただけである。



可能か不可能は、「やってみなければ分からない」のだ。


取り組み方によって、どんな道筋を辿るか予想できないものになり、結果は人智を超えていくこともある。自信と勇気と情熱を持って挑戦し続けていくと、物事はどう転ぶか分からない。


「奇跡の大逆転!」

「不可能を可能にする男!」

「できないとは、臆病で怠け者の言葉だ」よく言われるじゃないか。笑


不可能と証明できない物事を、勝手に「無理」と決めつけるほど、男として浅はかで恥ずかしいことはない。


それは臆病で怠惰な態度だからだ。


自力で道を切り開いて歩いて行くという、気迫も度胸も覚悟も情熱も感じられない。



「できない」を証明するのは、誰かに任せて。




確かに、他の人たちには無理だろう。


でも、「あなたがその気になったら、やってやれないことはない」。


だから、暑いの痒いの痛いの言ってんじゃね~よ


最近じゃ、5歳の子供だって、私たち大人にそういう手本を示してくれと大声で要求してくる。


「大人のくせに、ボーっと生きてんじゃねーよ!」。

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第447話◇基本の戦術


高校野球が始まった。


バッテリー対バッターの勝負。


ピッチャーの持ち球はストレートとカーブの二種類。ストレートに絶対の自信を持つ剛腕投手。

バッターボックスに立つのは、打率5割を誇りチーム最速の脚を持つ気迫の塊のようなヒット請負人。


どちらも、まず先手を取りたい。

ピッチャーの第一球は、絶対の自信を持つストレートで空振に取りたい。

バッターは気迫の塊。気持ちで優位に立ち、一球目からヒットを狙っていきたい。


第一球、渾身のストレート。

打者、フルスイングで空振り。

思った以上にボールに伸びがある。バッターの目つきが変わる。



二球目、ピッチャー、気迫に勢いを乗せた球で再度渾身のストレート。

打者、当てるも大きなファール。


ピッチャーが気迫でやや優位か。

バッター深呼吸して冷静に。

「気迫のこもったいい球だ。面白い…」。


キャッチャー、三球目はカーブのサインをピッチャーに送る。

「リキむな。はやるな。気迫を空回りさせたら持っていかれるぞ」。

三球ともストレートで相手を仕留めようとしていたピッチャーの気迫を抑える。


一球目、二球目とこのように来れば、どうしても心は微妙に浮き足立つ。すると微妙に身体はリキみ、球が高目に浮きやすい。

それはバッターが待ち構えている球だ。


そこで、カーブ。

一旦ピッチャーをリラックスさせる。


三球目、カーブは外に外れてボール。バッターも釣られることなくよく見た。



四球目、リキみを取った身体で決め球のストレート。

気迫の球と、気迫のフルスイング。

勝負の行方は…。



ここには、シンプルな戦術の基本が詰まっている。


起承転結。

「起」…自信と気迫をこめたストレート。

「承」…勢いを乗せたストレート。

「転」…リキみを取るためのカーブ。

「結」…勝負球のストレート。



バッターはワザと派手なフルスイングで空振りして、相手バッテリーの心に余裕やスキや油断を植え付けることもある。

それがバッテリーの軽率な判断やリキみとなる。一度傾いた心は簡単には修正は効かない。そこに突破口を見出す。



勝負とはチャボの喧嘩ではない。

心技体を鍛えあった者同士が対峙するのだ。

戦術無しというわけにはいかない。

ビジネスも勉強も同じ。



そして、心はいつも揺れているのだ。

心のコントロールを大切に。

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446話◇全身を同時協調的に


素直というものは、身体を通じて会得することが分かりやすい。


例えば、、

歌うキーを少し下げる(上げる)。


それだけで歌いやすくなる。それは身体全身で歌う感覚だ。

理想とするアーティストとはキーが違う。でも、そのアーティストの歌うキーを手離して自分のキーに立ち返ることで、全身を同時協調的に使える。活かせる(明明徳、親民)。


手離すことで手に入れられるものがある。

自覚しながら、身体全身を活き活き使えるという心地よさや伸びやかさは、まさに感動ものだ。



道理を踏まえながら、己の形にはめ直す。

全身が同時協調的に活き活きと使えてくる。


その感覚が確かにある。

それが素直。

それが誠。


それは己を欺かないことである(止至善)。



自分で自分をコントロールする。

そして、全身を同時協調的に使う。

これは呼吸、姿勢、思考、心、態度様々に敷衍させることができる。

これらは全部一つのことである。



ここからの努力は、面白いものになる。

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445話◇強さとは


以前、強さについて勘違いしていた。

「強さ」とは、邪悪であり野蛮である。だから、強い人というのは、どこか嫌な奴、怖い奴だと。笑



特にいじめられっ子はそう感じたことが多いのではないか?


なぜなら、いじめられっ子にとって一番強い奴は身近にいるいじめっ子だからだ。


いじめっ子の強さに対しては、服従するか、逃げ回るか、力をつけるかだ。

逃げ回るのも嫌だし、力をつけるには時間も勇気も度胸も覚悟も要る。そんなのは絶対無理だ!と思ってしまう。

結局、選択せざるを得ないのは、自分の心を自分で殺して、イヤイヤながらいじめっ子に服従することだったりする。


だから、強さとは人に服従を強いる理不尽なもの。

つまり、邪悪で野蛮なものだと思ってしまう。



でも、それは本筋ではない。大きな勘違いである。


そんな強さは、「様々な人達や物事を包容して、皆と親しみ合い、お互いに個性を開発・発揮させながら様々に結びつき、新たに創造変化していく」という「造化(仁)道理」に向かわない。

むしろ、「造化」をぶち壊すものである。


そんなものは、私たちの道義にはなり得ない。そこには、尊さなど微塵もない。



強さとは、決して邪悪なものでも野蛮なものでもない。


強さとは、道理・道義を実現していくものであり、自己の確立や自他の共栄に向かうものである。


強さとは、私たちが会得し大きく伸ばすに値する、尊く意義あるもの。

真善美そのものである。



邪悪なものや野蛮なものにどう応じるか。

私は「あの人みたいになって闘う」という理想がある。


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