2018年05月

441話◇飲む打つ買う


飲む打つ買う。

酒とギャンブルと女。


偏見も混じっているが、

酒にはタバコや肥満が付きやすく、ギャンブルには盗みと家庭崩壊が付きやすく、女には暴力や薬が付きやすい。



どれが一番良くないか?


酒は、肝臓や腎臓がやられて気力が衰えると、おとなしくなる。

歳を重ねて気力や体力が落ちてくると、女もおさまってくる。

例外はあるが。笑


しかし、

ギャンブル熱というものは年とともに重症化することが多い。

そして、年とともに勝負に弱くなる。


だんだん強くなっていくのであれば、まだ救いようもある。

しかし、多くのギャンブラーは年とともに弱くなる。



そして、この三つがなければ大事を成し遂げたであろう人は沢山いる。

結局、最後は自分の意志の強さ次第だけど。



飲む打つ買う。

酒とギャンブルと女。


最悪なのはギャンブルかな。

意志の弱さかな。

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440話◇最も美しいもの


造化の道理に順って、私たちはその心を様々に形にしていく。

そして心は真善美を願い求める。


では、私たちにとって、最も美しいものは何だろうか?



美しい形、造形美というものは、知識や技術を通して心が表現されたもの。


ならば、形になる前の心の中に最も美しいものがありそうだ。

それは何か?


出会い、共に戦い、愛し、許しあって繋がっていった人たちとの様々な「思い出」ではないだろうか。



思い出は、心にずっと刻まれる。



心に残る人たちと、今日はどんな思い出を作りましたか。

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439話◇勝ち取る


無料で手に入るものでは、いつまでも勝つことはできない。


それは、どういうことか



「勝利」とは、天から自分のもとに降ってくるものではなく、棚ボタ式に転がり込んでくるものでもない。

勝利とは、自らの手で掴み取るものである。



食事もベッドも学校も遊びも、何でも誰かが与えてくれる。

勉強も誰かが教えてくれる。

仕事も誰かが与えてくれる。


こんな日々に浸っている者は、自分で志を立てて何かを掴み取ろうとはしない。全身全霊で挑戦する前に、できない言い訳を作り上げてしまい、主体的・創造的・建設的に考えて行動しない。

いつもいつも、何かが起こるのをただ待っている。

つまり、生きる醍醐味を知らない。


だから、「ここ一番!」という時に頑張れない。踏ん張りがきかない。

頑張り方が分からないから、「頑張るってな~に?」などと愚かなことを聞く。



一生懸命・全身全霊で取り組む仕方を知らない。

だから、必死で何かを成し遂げた経験もない。


そんな生き方で何かを掴めるほど、世の中は甘くない。

なぜなら、戦う相手は、血反吐を吐いて必死に何かを成そうとしている連中だからだ。



精神力、知力、技術、体力。

パワーとスピードと自信を、代償を払って身につける。

学ぶべきは「一生懸命」と「全身全霊」。これを自ら血を流して学ぶ。そこから主体性と創造性、そして自信を育む。


そうして初めて勝てる。


こうやって一歩一歩進んでいく。

これが勝利への道となる。


みんな、勝者たれ!

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438話◇精神論か技術論か


これは、どちらかが正しくてどちらかが間違っているというものではない。


精神(根性)に根ざして、戦略や技術を展開させていく。

精神と技術を分断させたり対立させると、おかしなことになる。



精神論という陰だけではダメ。どんなにタフなメンタルでも、それを活かす技術を持っていなければ大した役に立たない。


技術論という陽だけでもダメ。どんなに素晴らしい戦略や技術でも、ビビらずにそれを活かすだけの強い心臓がなければ役に立たない。

道理・道義から外れた使い方をしても、その道は伸びない。


陰陽調和して、新たな創造へとつながる。

だから、心も技も、そしてその間にある体も鍛える。



自然と文明についても同じ。

自然(陰)に根ざしながら文明(陽)を発展させていく。

それが人類発展の本筋。


発展させる方向が分からなくなったら、根ざしている自然に答えを求めにいく。

答えは根っこにあるもの。



この、陰陽中という思想。

「易経」や「中庸」を通じてよく学べる。

どちらも「造化の道理」という根っこから説いているのだから、当然である。

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437話◇終始終わりから始まる


「大学」に「事に終始あり」とある。

事とは出来事であり、出来事は時間の流れの中で起こるから、そこには始まりと終わりがあると説く。



ふと、思った。

なぜ「始終」でなく「終始」なのか?


「始終」と「終始」、漢字の順番を入れ替えることで、その意味を変えている。

「始終」とは「しょっちゅう」「年がら年中」という意味であり、

「終始」とは「始めから終わりまで」「ずっと変わらずに」の意味である。


なぜ、「終始」に「始めから終わりまで」の意味があるのだろう?「始終」にその意味がある方が自然ではないか??



私が浅はかだった。



出来事は終わりから始まる。

だから「終始」なのだ。


時間を具体的に考えてみればすぐに分かる。例えば、朝の一瞬を取ってみたら、それは夜という過去の終わりで、同時にこれからの一日の始まりとなる。

終わりと始まり。終わりがあって始まりがある。

一瞬というのは同時であるけれど、いつも終わりから始まる。


だから「事に終始あり」なのだ。



良き終わりを持つことが良き始まりにつながるから、「終わりよければ全て良し」なのだ。

そして、良き終わりを持つための姿勢が、「最後まで頑張る」である。




「生きる」とは、各々に与えられた時間をいかに過ごしていくか、その生き様を刻んでいく事とも言えるのではないか。

それは、沢山の終わりと始まりを持つことでもあるだろう。



「漢Camp」のイベントではないが、皆で絶叫したあの掛け声を思い出しました。

それ風に言うならば、、


「生きるとは!!

最後まで頑張ることぜよ!!」笑

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