2018年03月

416話◇言葉を振りかざす人は


道徳的な言葉を振りかざす人は、何で嫌がられるのだろう?

道理を説いているのに、何でめんどくさい奴と思われるのだろう?


そういう人は、「人間は弱い面も持つ」という当たり前のことを知らないかの如く振る舞ってしまう浅はかさがある。

そう振る舞う姿こそが、「いい歳になっても人を知らない浅はかな男」「冷たく包容力のない男」「自分を棚に上げて安全圏から出てこない男」等の印象を周囲に与えてしまう。


また、先哲の言葉を振りかざしても、言外に「自分だけが正しい」という心を忍ばせているように見えてしまう。


そして、そんな態度に無自覚であることが多い。

だから、めんどくさがられる。嫌がられる。



それはとても悲しいことだ。



そもそも我々人間は、「造化」の何十何百億年という絶え間ない悠久の努力によって、ようやく生み出された存在である。

その偉大さと、己の未熟さに思い至れば、もっと人には敬意や慈悲や寛容さも以って「接する」ことこそが、人の道であるはず。



接する

そこなのだ。

どのように人や物事に接するかという己の行為こそが、言葉よりも大切である。


優しい言葉を使うなら、深く優しく大きな慈悲の塊のような態度で接して欲しい。

強い言葉を使うなら、威厳ある毅然とした行動を示して欲しい。

偉大な言葉を使うなら、偉大な行動で感化して欲しいと、心の底ではお互いに期待しているのではないか。



正論を振りかざして周囲から弾き飛ばされている人は、己の言葉ではなく、己の行為こそ己の寄るべだと自覚したら、きっと周囲の反応は変わる。




例えば、「孝」という心の本質は、感謝という感情と報恩という意志にある。

そこで、恩に報いるという意志を体現するために、孝心は必ず孝行とならなければいけない。


同様に、自分自身の「意を誠にす」「心を正す」という「大学」の八条目においても、それは「身を修む」「家を斉(とと)のう」「国を治む」と、己の行為とならなければ何も生まれない。何も変わらない。


当たり前だ。



維新を求めるが故に、先人達は「知行合一」「言行一致」を大切にして言葉を慎み、行動に重きを置いてきた。



新年度を迎えるにあたり、

自らの胸に刻むべきは、

「(己の誠に基づく)行為こそ己の寄るべ」である。

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第415話◇恐怖心


恐怖心は人間に与えられたものであるから、造化に資するよう使うことが大切である。

どんな武器も諸刃の剣。従って、当然ながら、使い方を間違えれば自分を傷付ける。


恐怖心を捨てなかったからこそ、人類は生きながらえて来たことだろう。


しかし、恐怖心に飲み込まれてしまったら、浅はかな選択や、情けない行動に終始することになる。



戦いにおいても然り。

敵は己を恐れ、己は敵を恐れる。

恐怖心というものは、どんな人間にも等しく与えられている。


大切なことは、

「前に出る」ということ。


相手が1歩出れば、こちらは2歩前に出る。

相手が100歩出てくれば、こちらは1,000歩出る。


「恐い。しかし、前に出る!」という精神こそが、己を敗北の惨めさから遠ざけ、勝利へと導く。


自反してみれば、「前に出る」精神こそが、己の誠の心であると思い至るはずだ。


一箇所に留まっていてはいけない。

恐怖心に飲み込まれると、いつまでも同じ所にいる正当性ばかり考えて、恐怖心を擁護し、惨めさを擁護するようになる。



大事なことは「前に出る」こと。

恐怖心は己の一部である。


恐怖心を引き連れて、

前に出ることである。

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414話◇自分の山に登る


各々が自分の山に登る。


その山のとは、、、

「北大の医学部に合格する」

「今の俺の山は、35年の住宅ローンを嫁と一緒に払い切る事だ」

「世界一美味しい茶葉を作る」

「世界大会で優勝する」

「今65歳。68歳までにエベレスト登頂を果たす」

「今の研究でノーベル化学賞を取る」

「うちの会社の社長にまで登り詰める」

「シェイクスピアを超える劇を書く」

「ギターを極める」等々。


また、仲間と共に同じ山の頂きを目指すなら、当たり前だが、同じ方向に歩いているかどうかを確認する。



皆、自分の登る山がある。

向こうの山に向かって、「ヤッホー」「おーい」とは呼びかけるけど、「バカヤロー」や「ごめーん」とは言わない。

応援はするが、批評はしない。



人間の身体は、降りるより登る方が簡単に出来る。そういう風に人間の体はつくられている。

ということは、多分人間は上向き、前向きに進むようになってるのだ。


だから、自分の登る山を見つけたら、いつまでも麓(ふもと)でうろうろしていてはいけない。



そして、最も大切なことは、てっぺんを極めたら、ちゃんと降りること。

降りるより登る方が簡単なのだから、大人になったらより難しい「降りる」ということもできなくてはならない。


そもそも、人間はいつまでも同じ場所にいる動物ではないのだ。


もし、山のてっぺんから戻ってこなかったら、それは「遭難」になってしまう。



山の頂きに立てるかどうか、それは自分で決めることじゃない。人間は人事を尽くすだけ。


山は危険だって?

危険はあったりなかったりするのではない。危険は自分の一部だ。


全部ひっくるめて、できるかできないかは分からない。やってみるまで分からない。

だから、やるを選ぶ。

自分の山に挑む。


後のことは山や天候が教えてくれる。

自分の山に登る。そして降りる。

それだけ。

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第413話◇義を通す


相手の方が立場も力も上。

そのような場合、相手の理屈で事を進められると、こちらには理不尽を押し付けられたとしか思えない場合もある。


そんな時にも、こちらの志義を明確にして、覚悟を決めて渡り合う。

こちらの道義を通さなければならない時もあるのだから。



「彼に一度会って頂きたく思います」

「ジジィの顔なんか見ても相手も面白くねぇだろ(会うに値しないと言っているのが分からねぇのか!)。適任者は俺の方で用意するから、そう彼に伝えておけよ」

「会ってもいないのに、それだけはご容赦下さい」

「何だと?お前、俺の判断に楯突くのか?お前は俺の敵か?」

「そのようなことにならぬよう、宜しくお願い申し上げます」


「…ふざけた奴だ。


不味い酒出したら許さんからな。


おい、一献付き合え。美味い酒がどういうものか教えといてやる」




相手に器量があってよかったです。笑

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412話◇恥とは何か


恥とは、耳に心と書く。

耳とは柔らかいという意。若しくは人々の言葉を様々に聞くという意。

そういう耳の心、つまり、柔らかい心、練り上がらずにフラフラとぐらついている心を恥という。


鍛錬を積み、肚が坐り、志や覚悟が決まっているのなら、心はフラフラとぐらつくものではない。グズグズと思い悩むものではない。


心がフラフラ、グズグズしているから、道理や己の道義に背(そむ)く行いをして、面目(人に合わせる顔)を失ってしまう。



「恥」は身体にも現れる。

覚悟や志義が決まっていれば、身体の軸も定まり、動きの中においても芯がブレることは少ない。

何気ない所作においても、凛とした雰囲気を感じさせる人は、身体の芯がブレていないもの。


稽古において、身体の芯がどうしても定まらない人は、より一層の体幹の筋トレ!ではなく、今一度稽古に向かうその姿勢や目標を確認して欲しい。芯が定まらない原因は自らの心に求めるのも一興。




己の志や道がはっきりしているのに、グズグズと思い悩む人たちもいる。

彼等は情に脆い。

しかし、情に脆過ぎたり流され過ぎてたりしていては、志義を見失う。

優しい男たちが陥りやすい過ちである。


そもそも「過(あやま)ち」とは、「過(す)ぎる」と書く。「過ぎたるは猶(な)お、及ばざるが如し」と論語にもあるように、過ぎることは足りないのと同じように正しくない。しかし、「足(あやま)ち」とは読まないように、足りないより過ぎてしまった方が始末に悪いのだ。



情に厚いのは弱さではない。

しかし、情に脆過ぎるのは、やはり過ちである。男が反省すべき弱点である。



そうは言っても、男は「己を知る者のために死す」という一面も持つ。

自分の気持ちを分かってくれる人がいるというのは、何ものにも代え難い嬉しさがある。その人に対しては、弱くもなる。



誇り高く、たまに弱くなり、そして恥を知る愛すべき男たちとの稽古も、何ものにも代え難い。笑

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