2018年02月

第390話◇造化の体現と道


造化は、同時存在・同時作用として森羅万象の中に存在している。

そこに主観的な秩序を与える事で、私たちの掲げる「自他共栄」のための位育参賛に役立つと考え、その為に敢えて順番をつけて、今日は「造化の体現」(自他共栄・位育参賛)への道を示す。


1.造化の「道理」を学び、自らの意思を誠にして(自分に嘘をつかない)、心を造化へと一致させるよう自分で自分を導いていく。

→「東洋倫理概論」「小学」「大学」「論語」「孟子」「荀子」「老子」「荘子」「中庸」「孝経」「易経」「孫子」等。


2.「造化」(自他共栄・位育参賛)を、主体的に体現していくと自覚・覚悟する。

→「義利の弁」「生死の覚悟」「志義の確立」等。


3.志義を立て、機鋒(実行力)と器量(包容力)と節度(忍耐力・制御力・克己心)の三つを、より強く大きくしていくよう心身を修養鍛錬しながら、日常の態度・行動として顕していく。


5.自らの志義(目標、理想)に心と身体を率わせ、身近な所から、様々に挑戦して物事を成し遂げていく。


6.志義を成し遂げてきた事から生ずる利は堂々と受け取り、更に強く大きく自らを修養鍛錬し(機鋒・器量・克己)、志義を達していく「造化の権化」として、位育参賛・博施備物・自他共栄を状況に即して様々に具現化していく。



そうは言っても、私達はただ「目標を達成する」事をプログラムされたロボットではなく、またそのようなロボットになることでもない。

私達は、絶対自慊であり、同時に永久不慊として、理想を追い求めながら現実を変化させていく、創造変化の主体的存在である。


自分を、より強く大きく深く高くあたたかく在りたいと希求することができ、同時に、まだ弱く小さく軽薄で冷たく下劣でもあると自覚できる存在である。


強くて弱く、大きくて小さく、深くて浅く、偉大であり愚劣であり…、そのような愛すべき存在である。




そこに思い至るならば、


1.自分より偉大なものや尊きものへの敬意(感謝報恩)を忘れず、

自らを恥じることを忘れず、


2.志義(理想・目標)を掲げ、気力・骨力を充実させて、主体的創造的に、自分の可能性と自分達の未来を切り開き、


3.人に対しては敬虔であり、寛容であり、温かく、

そして油断しないこと




それが私達の道である。

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389話◇憧れを抱く


超一流のとんでもなく強い者と勝負して負けた時、悔しいのは当たり前だが、

それとは別に「凄い、あの実力に近付きたい」とも思うことが必ずある。


この、自分には遠く及ばない偉大なるものや尊いものに対して抱く感情を「敬」と言う。

同時に、敬する相手に対峙した時、自らに対して抱く感情もある。畏れ多い、自分が未熟で恥ずかしい「恥」である。


敬と恥。

素直に自分の未熟さを恥じるならば、謙虚になる。

素直に憧れの対象を敬し、少しでも近付くための目標を持てば、勇気と気力が湧いてくる。


敬と恥。

この二つの感情があって初めて人は伸びていく。



確かに、負けを認めるのは辛いし悔しいし悲しいだろう。未熟な自分を受け入れる器量がない時は、相手を認める器量も出てこない。

だからと言って、そのような態度を続けるというのは、自ら成長の芽を摘んでいるのと同じことである。


周知の通り、成長には必ず痛みが伴う。痛みを受け入れる器量と強さを持ちたい。



自己流で物事を極めていく人は、天地自然万物すべてを師として受け入れ敬い、己の未熟さを深く恥じ入り、全てから学べる謙虚さと柔軟性、そして器量の大きい人である。

残念ながら、そのような人は少ない。

だから、一般的に言って自己流の人は大して伸びない。



素直に敬と恥の心を持つ人は、その心の根底に感謝報恩がある。

ここが全ての出発点である。


素直に偉大なものへ憧れを抱いていい。


その気持ちは自分を貶めることにはならない。自分の価値を下げることはない。

本来の自分、素直な自分に戻り、自然と進む道が開かれて伸びていく。


そして、小さな自我を離れ、敬恥と共に目標を極めていくという覚悟が、肚をくくる決め手となる。


高く高く憧れを抱く。

それは利己主義ではなく自己犠牲、自他共栄とぴったり一致する。

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