2017年11月

酒◇人の弱さを責めるな


自分の弱さは自覚している。


しかし、私が弱音や愚痴を言おうとすると、親友は「そんな事はない」「もっともっとお前は強い」と、私の言葉を否定する。


己の志義や造化(創造変化)のはたらきから離れるような心でいると、「それは偽りのお前だ。本当のお前はそんなものじゃないだろう」と私を責めて、弱い私を否定する。


「そんなつまらない話題は負け犬達に任せておこう。そんなことより、もっと面白い悪巧みをしよう」


私の親友は強くて優しい。

彼の優しさとは、人の弱さを絶対に責めないところにある。


私の思考が様々に錯綜してくると、「そんな考えはつまらない」と彼は言い放ち、造化に即し志義に逆らわない強い筋道を立てろと、大笑いしながら私を促す。


つまらないかどうか、その基準は明らかだ。

それは「造化に逆らっていないか。つまり、己の志と義に順っているかどうか」だ。


彼の心は造化そのもの。だから、彼はただ「面白いかどうかだ」と笑うだけだ。


彼の立居振舞や思考や言葉は、造化のはたらきをその時その時に応じて様々に具現化する。まるで魔法使いのように、その場の雰囲気を強く明るく温かくして、皆んなを笑顔に元気にしてしまう。


その基準に合わないもの臆病、卑屈、怠惰、無関心などは、全てつまらないもの。当たり前だ。



私が「これは無理かも」と思ったとしても、「じゃあ、できる事は何だ?」と、すぐに造化へ向かうよう、志義に逆らわないよう、思考や態度や行動が切り替わるのは、間違いなく彼の影響が大きい。



世の中は思っているよりもずっと複雑で、でも「死中有活」。思っているよりずっとシンプルに死中に活路を見出せるのだ。決断とは恐いものではなく、自分を溌剌と活かすものだ。そんな境地になれるのも、彼のお陰だ。



彼は百戦錬磨の豪傑で、最高の笑顔の持ち主。


彼は、私を含め沢山の人の心の中で、ずっと生き続けている。



思うに、、本当は負け犬なんて一人もいない。

もし、自分のことを負け犬だと思っている人がいるとしたら、それは人間の力を見誤り過小評価しているだけだ。

甘えるな。

いつまでも負けっぱなしでいるな。



今夜は、強くて大きくて、明るくてあたたかいそんな太陽のような男たちに、みんなに、乾杯。

第366話◇器量


大きな詐欺話を手土産に持って来られること、たまにありますよね。


「こちらを騙そうとしているのでは?」

「軽視されているのでは?」

「舐められているのでは?」

もしもそんな風に思ったら、それは自分の器量がそこまでの男だったと諦めるまででしょう。


問題は、相手や状況にあるのではありません。

そんな相手や状況をも包容する器量が、こちらにあるかどうかです。



器量。

女性にとっての器量とは、その容貌の美しさの度合いを指しますが、男にとっての器量とは、人間としての大きさです。



己の器量を大きく深くするにはどうすればいいのでしょう?

志義を確固たるものにして、あらゆる利害得失・艱難辛苦・栄枯盛衰・喜怒哀楽に臆せず挑み、自分の信念を試していくのです。


立ち止まって静かに考えてみれば、明らかなことです。



では、相手の器量を大きく育てるには、こちらはどう献身すればいいのでしょう?


万一、自分の彼氏さんや旦那さんや上司などに対してそんな気持ちを抱いている女性がいたら、参考にして下さい。


それは、


「相手に対し、敬愛の心をもって誠実に接すること」。


つまり、

臆することなくあらゆる利害得失・艱難辛苦・栄枯盛衰・喜怒哀楽に挑み、自分の信念を試していくよう、本人に知られないように仕向けるのです。



そこは、あなたの器量(人間としての大きさ・深さ)次第かもしれません。笑


よくよく考えてみて下さい。

第365話◇日記、続けられたらいいね


夜寝る前に日記を書くことをお勧めしている。


今日一日の出来事や気持ちを振り返って書き記すことは、自分の志義を新たにし、甘さや弱さに気付き、「喜心・感謝・陰徳」というより良く生きるための先哲の工夫に改めて頭が下がったり…。

心を定め、心を静め、心に活力を湛えるのに非常に有効だ。

もちろん、記憶力強化にも!



しかし、「日記は続かない」…という声も聞く。

「忙しいと日記を書く時間がないし、暇だと日記に書くことがないんだよ」と。


しかし、何事も心がけ。そして、心がけは一生もの。



日記に何を書くか。


■ある人は、日々の出来事。

午前中、午後、夜に分けて、

・何をしたか

・誰と会ってどんな話をして相手や自分の意図はどこにあるかを書いているらしい。


■ある人は、その日の気持ちを絵に描いているらしい。


■ある人は、3つのこと(喜心・感謝・陰徳)を書いているらしい。

1.今日どんないい事があったか?(喜心、感謝)

→自分にとってのいい事が、相手の器量や状況に甘えただけではなかったか?感謝だけでなく報恩に。


2.今日誰どんないい事をしたか?(陰徳と陽徳)

→直接相手を笑顔・元気にすることができただろうか(陽徳)?

また、物事が上手く流れるようにこっそり善事を行うことができただろうか(陰徳)?

一生懸命やっただろうか?


3.今日やってしまった悪い事は何か?なぜそれが悪い事なのか?※

→己の甘さと弱さに流されることと、思慮が浅はかであることに尽きる。

その類型は、

「造化のはたらきを損なうこと」

「道を損ない、志義に反すること」

「負け犬の遠吠えや泣き言」

「己を誤魔化すこと」


※なぜ、「3.やってしまった悪いこと」も書くのか?楽しいことだけでいいのでは?

→自分を成長させるため。

反省(自分を省みて、甘さや弱さを省く)がなければ、独善・軽薄に陥りやすく、自分の成長を阻害してしまう。

独善・軽薄に流れては、いずれ異端となり必ず破綻する。



日記、本気で続けたい人は、自分なりに楽しんだり工夫したりして、日々の習慣になるといいね!

364話◇甘ちゃん


私はすぐに泣きごとを言っていた。

その泣きごとは巧みだ。


「なんでこんなにやってるのに結果が出ないんだろう」

「みんなすごいなぁ」

「悔しい、悲しい」

「努力は報われなかったなぁ」


人から同情されることを心のどこかで求め、自分の不甲斐なさを醸し出して、それが人に伝播してしまう。




考えれば当たり前のことだが、


寂しいとか辛いとか悲しいとか、そんな普通なことを、同情を求めるように卑屈になったり落ち込んだり暗い顔をしたりする人

そんな雰囲気を少しでも纏って、それが相手に伝わってしまうなら、その幼稚さや甘えに対して嫌悪感を覚え、その人から離れていく人は多いのではないか。


こんな言い方は冷たいだろうか?



言い換えるとこうだ。

幼稚だったり甘ちゃんだったりする人、

同情を求めたり、落ち込んだり、暗い顔をする人は、

元気になれるのだろうか?

人から好かれるだろうか?

自分の成すべきことを成し遂げることができるのだろうか?


幸せになれるのだろうか?




そういう人は、弱いのではない。


ただただ、甘い人。

未熟なのだ。


なぜいつも、そう考えが甘いのか。

心のどこかで、「どうにかなる」と思っているのだろうか。


そのような甘い人は、天邪鬼になったり、自分を壊したり、他人や物に当たったりと変な刺激を求めることが少なくない。


身体だって、本当にきつい鍛錬の直後は優しい水を欲することが多いが、怠慢な生活をしているとカフェインや炭酸やアルコールなどの刺激の強い物を欲するようになる。


そうすると、自分の「甘さ」と、自分を傷つける「辛さ」とで、バランスが取れてしまう。

しかし、こんな愚かなバランスの取り方を選択してどうする?



改めるべきは、根性。

自分の甘い心を別のもの(例えば義に順う心等)に入れ替えることである。

自分の中から勇気を絞り出して変えていくしかない。


そうやって変化させていく力は皆持っている。力を持っていながら怠慢であってはいけない。



誰でも、緊迫感を持って一生懸命に物事に取り組んでいるなら、皆強い。皆甘くない。弱い人など、なかなかいるものではない。



今夜も、自分の甘さに蓋をするような稽古ではなく、甘さを捨てて、本来の自分に戻れる稽古を。


第363話◇精神と心の関係


字義からすると、


精神

・「精」は精米と言うように、純化された状態を示す言葉。

・「神」は「こころ」「しん」と読み、「働き」を表す(エネルギー)。個を超越した霊的な心のはたらき。

従って、「精神」とは「純粋な心のはたらき」の意味。


・「心」は「神」が作用する場所であり、個の意志的な内面の動き。

「心」はもともと「心臓」を意味し、心臓で精神的な作用が営まれていると考えられていたので、「心」は「精神」のような意味になった。



これらを踏まえて精神と心とその関係を考えてみると、


精神

・精神とはエネルギーである。個を超越した万有の霊的な心のはたらきであり、造化(誠、義)を具現化するエネルギーである。


・心とは空(くう)である。従って、物事に触れることで、おのずから善も悪も(※)生じやすく、また、善悪どちらにも動きやすいものである。

心とは、個の意志的な内心の動き、意思である。


立居振舞や言動、相貌の変化は、この心の動きによって生ずるものである。


※善…敬愛・勇気・忍耐・節度など、造化へ向かうもの。

※悪…臆病・怠惰・卑怯・無関心・惰弱など、造化から離れるもの。



両者(精神と心)の関係は、陽と陰、君と臣、本と末、形と影のようなものである。



この心の動きのエネルギー源が精神であり、心を束ねるものが義であり、その行き先が志(造化、道、目標、夢)である。


従って、精神(エネルギー)が弱ければ、心もそれに追随するため弱く、義を持って心を束ねなければ我意に流れやすい。また、志がなければ我欲に流れやすい。



結局、「心」が善に動くか悪に動くかは、「精神」の強弱と志義の有無による。


そして、精神の強弱は、元気(気力・骨力)の強弱による。


従って、元気(気力・骨力)があるというのが、まず大切なことである。

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