東洋思想◇「呂氏春秋」夏の節 メモ1
・欲するものや願うものを得られないのは、道理をわきまえないからである。道理をわきまえないのは学問しないからである。
師の価値を判断するには、道理や孝・忠、品徳を見る。自ら卑しむ師は尊重されず、師を卑しむ者は師に従わない。
・師のつとめは、智を尽くして道理と正義を説いてよく導くことであり、相手の歓心を得ることではない。そのためにはまず手本を示すことである。
・天は人間に耳目口心等を与えた。しかし学び鍛えなければ、それらを持っていない者にも及ばない。
だから学問とは、何かを足し増やすことではなく、鍛錬修養してその人の持ち前の天性を遂げさせることである。
・口先だけの弁舌ではなく、発言にはしっかりした根拠を持たねばならない。そして、いつも学問の大本に立ち返ること。
・弟子が師の世話をする時は、気持ちを楽しませることを第一とする。亡くなられたならば、四時の祭りを絶やさぬよう敬して供養する。
弟子の態度はキリッと恭しく、顔つきは穏やかで、言葉は丁寧に。立居振舞は素早く、しかもきちんと。
・学問とは学派の発展のために力を尽くし、伝統をより立派にする。だから、教育とは道義を実践する要であり、学問するとは知性を磨き上げる要である。
道義を実践する要は、人に利益を与えることで、その要は教育を与えることである。
知性を磨き上げる要は、自己の完成であり、学問と実践により人物が出来上がれば、どんな地位や場所にいても力を十二分に発揮する。
・教育法の基本は、まず師が手本を示すこと。指導の仕方は「安・楽・休・遊・粛・厳」の6つ。
1.「安」→教育というものは、まず弟子を「安心」させなければ始まらない。師の言う事ではどうも安心出来ないというのでは教育にならない。
2.「楽」→師の教えを受けることが「楽しい」ことが大切。楽しまなければ学問も深化しない。
3.「休」→疲れが癒され、救われ、気が休まる。弟子がほっと一息つけて、学問の有難さを感じさせるような先生が欲しい。
4.「遊」→「休」をもっと積極的にしたもの。学に遊ぶ。子供が無心になって遊ぶように、学問の中に遊ぶ。そもそも「遊(游)」とは、何の抵抗もなくゆったりと自然に流れていく黄河のダイナミックさを表す。
5.「粛」→学問との一体感が出てくると、自ずから内面的に粛(つつ)しむようになる。
6.「厳」→内面的に粛(つつ)しむようになると、学問が意義深いものになる。本人が学問と一体感を得れば得るほど、学問の本質や本義に触れて「厳粛」になる。
これら6つを学問・教育に得れば、外道は塞がり、人間はいかに生きるかという「理義の術(みち)」が明らかとなる。
・師弟の心は一つでなければならない。
師は弟子を見るのに自分を見るようにする。自分に振り返って教えるから、人を教えることに情理を尽くすことができる。人に教え施そうとする者は、必ず自分にも行ってみることである。
このようにする時、師と弟子は一体となる。