2017年07月

東洋思想◇「呂氏春秋」夏の節 メモ1


・欲するものや願うものを得られないのは、道理をわきまえないからである。道理をわきまえないのは学問しないからである。

師の価値を判断するには、道理や孝・忠、品徳を見る。自ら卑しむ師は尊重されず、師を卑しむ者は師に従わない。


・師のつとめは、智を尽くして道理と正義を説いてよく導くことであり、相手の歓心を得ることではない。そのためにはまず手本を示すことである。


・天は人間に耳目口心等を与えた。しかし学び鍛えなければ、それらを持っていない者にも及ばない。

だから学問とは、何かを足し増やすことではなく、鍛錬修養してその人の持ち前の天性を遂げさせることである。


・口先だけの弁舌ではなく、発言にはしっかりした根拠を持たねばならない。そして、いつも学問の大本に立ち返ること。


・弟子が師の世話をする時は、気持ちを楽しませることを第一とする。亡くなられたならば、四時の祭りを絶やさぬよう敬して供養する。

弟子の態度はキリッと恭しく、顔つきは穏やかで、言葉は丁寧に。立居振舞は素早く、しかもきちんと。


・学問とは学派の発展のために力を尽くし、伝統をより立派にする。だから、教育とは道義を実践する要であり、学問するとは知性を磨き上げる要である。

道義を実践する要は、人に利益を与えることで、その要は教育を与えることである。

知性を磨き上げる要は、自己の完成であり、学問と実践により人物が出来上がれば、どんな地位や場所にいても力を十二分に発揮する。


・教育法の基本は、まず師が手本を示すこと。指導の仕方は「安・楽・休・遊・粛・厳」の6つ。

1.「安」教育というものは、まず弟子を「安心」させなければ始まらない。師の言う事ではどうも安心出来ないというのでは教育にならない。

2.「楽」師の教えを受けることが「楽しい」ことが大切。楽しまなければ学問も深化しない。

3.「休」疲れが癒され、救われ、気が休まる。弟子がほっと一息つけて、学問の有難さを感じさせるような先生が欲しい。

4.「遊」「休」をもっと積極的にしたもの。学に遊ぶ。子供が無心になって遊ぶように、学問の中に遊ぶ。そもそも「遊(游)」とは、何の抵抗もなくゆったりと自然に流れていく黄河のダイナミックさを表す。

5.「粛」学問との一体感が出てくると、自ずから内面的に粛(つつ)しむようになる。

6.「厳」内面的に粛(つつ)しむようになると、学問が意義深いものになる。本人が学問と一体感を得れば得るほど、学問の本質や本義に触れて「厳粛」になる。

これら6つを学問・教育に得れば、外道は塞がり、人間はいかに生きるかという「理義の術(みち)」が明らかとなる。


・師弟の心は一つでなければならない。

師は弟子を見るのに自分を見るようにする。自分に振り返って教えるから、人を教えることに情理を尽くすことができる。人に教え施そうとする者は、必ず自分にも行ってみることである。

このようにする時、師と弟子は一体となる。

男と女◇寂しさからの誘惑


寂しい男たち

独立独歩の気概のない男、やせ我慢のきかない男、志や誠を持たない男は弱い。

寂しさを紛らわすことばかり考える。感覚的肉体的欲望を満たすことばかり考える。


彼らにとっては、寂しさや不安や暇な時間を埋めることが重要だ。自分と向き合うよりも、外へ外へ刺激を求める。


志や義や誠のない男たち。

常に誠よりも欲望に流される男たち



寂しい女たち

慈悲や操のない女は弱い。

そんな女の身体に群がる男たち。彼らの欲望を隠した、甘い策略に抗えない女達。


「美味しいもの食べに行こう」と言って男は女に近づき、「綺麗だよ」「一緒にいたい」と言って女に触れる。

弱い女は寂しい男に流される。



尊さなど望むべくもないが、世の中には外見が美しく内側は虚しい甘い誘惑が多い。


そして彼らは、簡単に人の掌の上で踊らされる。

金や物や地位などの欲望を満たすように誘うか、寂しさや不安を誤魔化してあげるか、恐怖や愛で優しく縛り付けてあげればいい。


しかし、それでは情けない。


自ら切り拓いていく強さと、和していく強さ、やせ我慢のきかない男は哀しいだけだ。


全てを包容する慈悲と、操と、育む強さを秘めていない女も哀しい。



寂しさからの誘惑か、自らの誠か。


一呼吸の間の、

己の選択。

東洋思想◇「克己」とは苦痛束縛では無い!


心には「真の自分」がいて、そして同時に「弱い自分」もいる。


「真の自分」とは、自分の心の奥底の良心(造化)に誠実な自分のことであり、

「弱い自分」とは、様々な外からの刺激に流されたり、肉体的感覚的な欲求に流される自分のことである。

どちらも自分であり、どちらかを排斥することはあり得ない。


しかし、様々な肉体的感覚的欲求に流される態度は、自分を大切にするとは言えない。

なぜなら、これらの欲求をそのまま放任すると、いずれ生活の破綻を招きかねないからだ。


だから、弱い自分であっても、自分を大切にするならば、これらの欲求に制約を加える必要がある。


例えば食欲が節度を超えて放縦に走るなら、肥満や糖尿病など、健康を害する。



「克己」とは、自らを大切にしたいという意志から起こる主体的な「自己統制」である。

自分の内面的欲求を体現していくため、自分の個性才能を躍進させるために、雑多な欲求を切り捨てるのではなく、一括し統制していく作用のことである。


自分を大切にするからこそ、自分で自分を統制し牽引していくのである。



自分を大切にしたいが、克己はムリというなら、一体その態度にどんな意義や価値があるというのだろう?


それにもかかわらず、一般的に克己は厳しいとされる。何故か?


それは、自分で自分のことがよく分かっていないことも一因だろうが、否定する必要のない自分の要求を「認めてはいけない。全て我慢しなければいけない」と考えているからではないか。


そもそも、人間の要求は、全て相応の理由があり、これらを一切否定することは、生命の否定に繋がる。

にも関わらず、不可能に見える我慢を強いようとするから、克己は耐え難いと忌み嫌われる。


そういう0100 かという話ではない。


例えば、腹一杯食事して動けないという食欲の満たし方をするのではなく、腹六分や腹八分で食欲に節度を持たせ、次やることへ自分を向かわせ、新たに自己を発揮展開していくのだ。


中途半端にするということではない。

自己統制していく。それは、物事を成し遂げていく原動力である。


つまり、克己は最も良く自己を発揮し実現することであり、克己という自己統制は真の自分を作っていくものである。

決して、無闇に自由を拘束して苦痛を強いるものなどでは断じて無い。



克己とは、自分が放つ欲求をなくすことではない。

自己統制し、真の自分(個性・才能・資質)を躍進させることである。


それは、「自分を大切にする」という、

自然な態度である。


世人余話◇失敗、間違い、過ち


・失敗物事をやり損なうこと。方法や目的がまずく、良い結果が得られないこと。

成功への途中経過。

経験から学ぶことで正せる。


・間違い真実と違うこと。過失。的外れ。

学ぶことで正せる。


・過ち度が過ぎて人としての正しさを失うこと。己の義に反する道徳的な間違い。

もう一度、一からやり直すには、まず償わなければならない。

償いは、己を省みて過ちを認め、人として相応の継続した義の行いが必要。

人としての義を学び、己の正義を立てて、過ちを断固として正していかなくてはならない。



何もせず、逃げているばかりだと、前を向くことさえ出来なくなるかもしれない。


今日で人生を終わりにしないなら、

明日の自分の為、己の造化のために、今できること、今すべきことを選択する。


自分で自分を壊してはいけない。

自分とも周囲とも、断絶している場合ではない。争っている場合ではない。

世人余話◇<つくる> メモ


・造化(創造変化/創造展開/ 自律自慊)

・創る初める、新たにつくる(創立、創業)

・作る小規模、形はあったりなかったり(手作り、作詞、作家、記録作り)

・造る大規模、形有るもの(造船、宅地の造成)


道(造化の道/人の道/ 己の道)に誠実に、

己の資質や才能に従って、

様々な物事をつくっていく。


陰(統一・潜蔵・調和)の側面にも、陽(分化・発展・対立)の側面に、様々につくっていく。

陰の側面(統一・潜蔵・調和)において「つくる」とは、「まとめる、無駄なものを省いていく、一つにしていく」ことだろうか。



0.「造化(創造変化)の働き」を学ぶ。


1.自己をつくる。

昨日より今日、今日より明日と自分を成長させる。そのために様々に取り組む。「己の絶えざる成長・創造変化」に焦点を当てる。やる事が、好きか嫌いかと言いすぎることなく、「成長・創造変化」していく自分の姿に期待する。

易経に言う「天行健、君子以自彊不息」である。

造化に順って様々に自己を実現させることが、即ち「つくる」、造化の具現化になる。


2.家庭、社会、国家、世界をつくる。

様々に、造化の働きを具現化させていく。

陰陽、新たな物事、形有るもの、形ないもの、小規模なもの、大規模なもの、様々に「つくる」。

自分の資質・個性・才能・境遇・環境に応じて、自らつくり、組織化してつくり、周囲と協力・団結してつくり、過去から学んでつくり、未来へ託すようにつくる。様々につくる。

また、自ら省みて無駄を省き、新たにつくるために壊す。

壊すことは、つくることに内在されている。



「造化の働きを具現化するのが人間である」と捉えれば、「つくる、つくり続ける」というのは、人間の使命の一つと言っても差し支えないはずだ。


自分の心をつくり、身体をつくり、資質や才能に率って、様々につくる。

それは、組織だったり、様々な発明だったり、料理だったり、音楽、絵画、スポーツ、文学、医療、芸能、文化、教育、政治、経済、仕組み、人脈、様々な技術、遊び、犯罪、思想、哲学、宗教、新たな何かと、どんどん分化していくのだろう。


これらが、その人の誠の心から生み出されたもの、取り組んだものであれば、それがそのまま自己の実現であり、造化の具現化である。


ただ、分化(陽)していくだけでは、根っこ(陰)からどんどん離れるのであり、末端(陽)の力は小さくなっていく。

だから、根っこ(陰)を「つくる(養う)」ことを忘れていると、先端(陽)は行き詰まる。

↑このページのトップヘ