2017年04月

世人余話◇春の日の雪だるま


GWの晴れた日に、朝から仲間達と雪だるまを作る。温かい太陽の陽射しに、世の中みんなキラキラと輝いている。

きっと世の中にはキラキラと美しいものしかないんだ!


目も鼻も口も作って立派な顔になった。

雪だるま、完成!


雪だるまは雪で作った達磨(だるま)。

達磨大師といえば、武術(易筋行)の元祖じゃないか。

ならば、この大きな雪達磨大師(ゆき だるまたいし)を安置する堂を建ててしまおう。


3時のオヤツを経て、あと少し!


夕方の堂の完成を待って、私たちは雪達磨大師を無事に安置できるだろうか。




縁や機を逃し、順序や本末を誤れば、物事は失敗に終る。

機を逃した努力が報われることを期待することはできない。


春の日に雪だるまを作って何を期待するというのだ。



時は待ってくれない。

「やる!」と決めたなら、したたかに進める。


くだらないことにうつつを抜かし、つまらない心配に身をやつして、実行を中止してはならない。



春の日に雪だるまが溶けたら、甘えた心も溶けて、

やっと眼が覚める。笑

世人余話◇これさえあれば!

夜になって徳山は宗信禅師の個室を訪ねた。

宗信禅師は何も言わない。

徳山はどうすることもできずに部屋の中に立ったまま夜が更けてきた。


そのとき、宗山は「あなたはどうして自分の部屋に帰らないのですか?」と聞いた。


仕方なく、徳山は宗信禅師を礼拝し、その部屋を出た。

しかし外は真っ暗で、方向も良くわからない。


もう一度宗信禅師の部屋に戻って、「外が暗くて歩くことができません」と言うと、禅師はろうそくに火をつけて徳山に与えた。


徳山が「ありがとうございます。これさえあれば帰れます」と言ってロウソクを受け取ろうとした時、宗信はその火をふっと吹き消してしまった。


徳山はその時、忽然として悟った。



宗信禅師は、洒落たやり方で徳山に伝えたんだなぁ…と感心した。



ロウソクの火が消されて、

そして、心に火が灯ったのだ。


「これさえあれば!」が自分の外にあっては、安心や立命は得られない。



主体性を回復する。



家族、友達、お金、仕事、地位、権力、スマホ、趣味、ロウソク…そういうものを例え失ったとしても、

それでも自分の中に残るもの、絶対に奪うことのできないもの。


それが自分の絶対。


それを修養し、拠り所として、為すべき事を成し、友と遊び、先哲や歴史に学び、喧嘩したり挑戦したり怠けたり…。


「これさえあれば!」と思っていたものが、実は90度位ズレていることも少なくない…。笑


灯りを消してみる。


すると、自己の内側から外を照らし始める。

そんな己こそ、己の拠り所。



世人余話◇夜の暗さ


煌(きら)めき、飾り、色合い


それらを引き立てるのは、夜の暗さ。

夜の暗さがあるから、人も輝く。


昼間の太陽は、全てを照らし輝かせる。

だから、簡単でも複雑でも、地味でも派手でも問題はない。


しかし、夜には、

その灯りが、その灯りが作る陰影が、

物も人も一層美しく引き立てる。



人の声は、夜闇から聞こえれば、その思いやりまで伝わるだろう。


楽器も、夜闇の中から聞こえる音は際立ち、余韻は長く美しい。


花の香りも、夜立ち上がれば辺り一帯を包み込み、人の心の中にまで染み入ってくる。



今日はプレミアムフライデー


華やかに着飾って、

夜更けにそっと化粧を直し、



大切な人と、

 …素敵な夜を。

東洋思想◇「学」とは〜呂氏春秋よりエール〜


「凡(おおよ)そ学は能(よ)く益(※)するに非ざるなり。天性を達するなり。

能く天の生ずる所を全くして之(これ)を貶(へん)することなき、是を善(よ)く学ぶという」


益(えき)する付け加える、増す


訳)学というものは、何か付け加えるというような手段的なものではない。もともと資質として備えているものを発達させるためのものである。

親が生んでくれた自分自身を全(まっと)うして、それを貶(おとし)めない、いい加減なことをしないことを、よく学ぶという。



「此(こ)れ之(これ)を学に得しなり。凡そ学は必ず業を進むるを務(つと)む。心すなわち営(まど※)うこと無し」


営(まど)う惑う、迷う


訳)学問というものは、自身に与えられている資質を伸ばして発揮していくことである。だから、実生活で実践すべく努力することになる。

努力を重ねていると「一心は万変に応じる」ようになり、「先が分からずにどうしていいか分からない」というように惑うことが無くなる。


教える方は、

「善く教える者は、徒を見ること己の如(ごと)く、己に反(かえ)りて以(もっ)て教える。教えの情を得るなり。

人に加える所は必ず己に行うべし。此(かく)のごとくなれば師徒、体を同じくす」


訳)よく教える者は、生徒(学ぶ人)を我が身となって教える。生徒を自分と同じに見て教える。そこに、教えの情(人間味)が入る。

人を教えようと思えば、まず自分が実行しなければならない。そうなって初めて先生と生徒が一体になる。



人の力、学の力、教の力は、人格の力となり、その力の大きさは計り知れない。



日々、学んでいるあなたへ、

古典を引用したエールです。

何度か読み返すと、先人達の情味も受け取れると思います。


2,200年以上前からの人達が、皆であなたを応援しています。


私も、いつも見守っています。

第294話◇集中を妨げるもの


物事を極める極意とは、「今に集中する」こと。

今に集中するとは、今取り組んでいる対象と一つになる、同化するということ。


昇格審査で、自分の実力不足を棚に上げ、

「何故追試がないのか。1点足りないだけじゃないか。追試をやってくれ」と言う人がいた。



ある人が、弓の稽古で、三本の矢を持って的(まと)に対峙した。


師の目つきが変わった。

「何本も矢を持つものじゃない。一本目の矢に気合いが入らなくなる。いつでも、一本の矢が的中するように精神統一をしろ。未熟者め!」と一喝。


師の前で稽古するのに、わざと最初の一本を無駄遣いする弟子はいないと思う。

しかし、彼は無意識に怠惰な心を呼び起こす。師はそれを知っているのだ。


この戒めは、昇格試験にも当てはまる。


二本目の矢を持たせることは、時に人を怠惰にさせてしまう。



人にはそれぞれの道がある。自分の資質や才能や個性を「性(さが)」と言う。

己の天性を自覚し、その性に従って歩むことを道と言う。


今夜の稽古に明日の修行を思い、明日になったら夜の修行を想像する。

同じ事を繰り返して、「次はもっと頑張ろう」と思い直したりする。


そんな意識では、自分が「怠惰」に支配されていることすら自覚できないかもしれない。


「今に集中する」…何と難しい事か。笑



中国の武術家、李氏八極拳の創始者である李書文を思い出す。

彼は真剣勝負の場において、殆どの対戦相手を牽制の一撃のみで倒した。

彼は「二の打ち要らず、一つあれば事足りる」と言った。


彼は弟子にも「千招有るを怖れず、一招熟するを怖れよ(多くの技を身に付けるより、ひとつの優れた技を極めよ)」と説いている。


次がある、明日がある、来世がある等と思って取り組んではいけない時がある。



二本目の矢はいらない。


一度の機会で十分。

今に集中。

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