2017年03月

世人余話◇賄賂の道徳


社会道徳にも階層がある。

指導者道徳、文化道徳などは、社会の表面の代表的な道徳。

もう少し下がると、泥棒の道徳、ギャンブルの道徳、そして賄賂の道徳などがある。


指導者道徳などの社会の表面にある代表的道徳が頽廃しても、やり直しはできる。だから、極論すれば大したことはない。


しかし、社会の下層や裏稼業の道徳が崩れたら、修復がきかない。


人間社会には、殺人や傷害、泥棒や詐欺、ギャンブル、賄賂などの暗い側面がある。この側面の道徳がしっかりしていると、社会の土台がしっかりしているということで、上がグラついても取り替えがきく。

が、土台が崩れてしまったら修復はきかない。


その意味で、政治家や医者や教師の腐敗や堕落などは、まだどうにかなる。大したことではない。

しかし、詐欺や賄賂などの犯罪者連中の道徳(掟)が崩れたら、どうしようもない。日本民族がダメになる。


・詐欺でも、若い連中が年金暮らしの年寄りの慈悲心を逆手にとったり、


・殺人でも、幼児をブン殴って刺し殺したり、バラバラに切り刻んでトイレに流したり、


・賄賂でも、ただ愛人に貢ぐためや、私利私欲のためだけに貰って、しかも相手の顔をを立てないようにすると、これはいけない。


なぜいけないか。人間の徹底的な堕落であるからだ。


例えば、賄賂にもルール・道徳・恥がある。

だから、賄賂を贈るにも、その道をもって、相手の顔をを立てるように贈らなければならない。

受け取った賄賂も、その使い方に道徳がある。そのまま自分で着服するのはダメ。その賄賂に意味を持たせなければならない。贈る相手を助けるようにしなければならない。


確かに、賄賂は汚いが、賄賂があることによって社会が円滑に動く潤滑油の役割を果たしている。


「道徳的に許される賄賂なんてあるのか!」という世の中を知らない書生論もある。

だが、そうじゃない。


世の中には裏面の事実というものがある。

そこには、裏面の道徳がある。


会社や顧客の金を横領して愛人に貢ぐから、つまらない世の中になる。

愛人に貢ぐことも、世の中の裏面の事実としてはある。貢ぐなら、貢ぐ金で貢げばいい。会社や顧客の金を横流しするのは、人間の徹底的堕落である。


それでは日本民族がダメになるのだ。


この道徳を頽廃させないためには、「恥を知る」という風潮を養うしかない。

恥ずかしいという心は、「敬う心」を高めることで、より顕在化する。



そこで必要になるのが、子供や大衆が敬意を抱く思想や行為や人物を作り出していくこと。


特に子供が人格的人間として成長するためには、愛だけでなく敬が必要。

子供は愛だけでなく、敬する対象を欲し、その対象から自分が認められる、励まされる、叱られる、そして未熟な自分を恥ずかしく思うそういう心理が大切。


そういう心理的満足を、私たち大人が子供たちに十分与えていないところに、深く深く反省すべき点があるのではないか。

世人余話◇大黒柱を立てる


人間が人格的に成長するには、「愛」だけでは足りない。「敬」も要る。

愛の対象を母に、敬の対象を父に得る。

現代の家庭教育や児童教育の欠陥の一つは、幼少期に「敬」がいかに大切かを忘れ、「愛」を与えていればいいと考えられていることだ。


愛と敬。

これは「孟子」から学んだことであるが、そもそも「孟子」や「論語」「老子」「易経」のような、いわゆる経書を学ぶことの利点は何であるか。


経書とは、例えるなら家を支える大黒柱のようなもの。

(今の家は昔の家と構造が違い、柱と壁によってつくられるものなので、大黒柱がなくても家は建てられるが)、

昔の家は田の字型の家が多く、家の真ん中に大黒柱が存在した。

大黒柱には四方から梁がささり、また、土台から屋根まで長く存在し、屋根面も支えたように、まさに家全体を支える柱である。


経書というものは、余計なものを全て省き、豊かに生きていくために大切な根幹部分だけが追求されている。

大黒柱と同様、経書を学ぶことを根幹とすれば、様々な出来事や経験や学問を組み合わせること、構成していくこと、体系を作っていくことができる。


医学、数学、法学、生物学、物理学、科学、音楽、文学、政治学、経済学等、何を学ぶにしても、経書が全ての根幹になる。


つまり、一切の学問を「経書の注釈」にするように勉強していけばよい。


すると、あらゆる学問の一つの原理原則が出来上がる。そして、学問が体系的になる。


古今東西様々な研究の結論を、例えば「論語」の注釈にするようにもっていく。心理学も哲学も政治学も経済学も何でも「論語」の原理原則に結びつけるようにもっていく。


こうしなければ、知識と人格が乖離(かいり)する。人格的には幼稚な人間が、知識や技術を振り回すことになりかねない。



人間と他の動物との違いの最たるものは、その徳性と知性の有無であるが、あくまでも徳性がその本質的要素であり、知性は付属的要素である。

従って、徳性を養う学問を根幹に据え、知性を養う学問を枝葉として、様々に花実(社会興隆・文化・文明・科学技術・医療技術等)を結実させるようにするのが本筋である。



己の精神の大黒柱は立っているか。

己の学問の大黒柱は立っているか。


その大黒柱を根幹に、その根をますます深め、枝葉を豊かに伸ばし、強く明るく人生を築いてきたい。

世人余話◇笑顔から始まる


明治初期、スマイルズ著「自助論」の訳やJ.S.ミル「自由論」を訳した儒学者でクリスチャンの中村敬宇に「母」と題する名文がある。


「一母有り。四才児を携えて一牧師に問うて曰く、子を教うるは何才を以て始めと為すかと。

牧師對(こた)えて曰く、汝の笑顔の光、小児を照せしより、子を教うるの機会始まると…。鳴呼、世、固(もと)より此の母の機会を失う如き者多し。

今世の人、口を開けば聊(すなわ)ち文明と曰い、而してその本原に昧(くら)し、余嘗って謂う、

国政は家訓に原(もと)づき、家訓の善悪は則ち、その母に関(かか)わる。

母の心情、意見、教法、礼儀は其の子他日の心情、意見、教法、礼儀なり。

斯(ここ)に知る、一国の文明は、その母の文明に本づくことを」。


訳)一人の四歳の子を持つ母親がある牧師に問う。「子供を教育するのは何歳から始めたらいいでしょうか」。

牧師が応える。「あなたの優しい笑顔の光で、初めて子供を見つめる、その時から子供の教育は始まっているのですよ」 と。

世の中にはそのことを知らないで、機会を失してしまう母親が多い。

今の世の人は、口をひらけば文明の世の中だといって浮かれているが、人間の本質を見ていない。自分はかつて言ったことがある。「国政は家訓にもとづき、家訓の善悪はその母親次第だ。 母の心情・意見・教法・礼儀が、その子が成人した時の心情・意見・教法・礼儀になる。 

よって、一国の文明はその母の文明に基づくことがわかる」と。



母の人生にはいつも子供がいる。

しかし、子供は新しい年を迎える度に離れていく。


「母」を己に置き換えてみる。

母の偉大さに、頭が上がらない。


父母の恩に報いなくては。

世人余話◇人間と他の動物を分けるもの


人間と他の動物を分けるものは何か?

人間は火や言葉を使う。頭脳が発達している。これらが他の動物と違う点だろうか。


人間を機械化するのではなく、人格的存在であるという観点から他の動物と違う特質を考えると、大きく2つある。それは、「徳性」と「知性」である。


1.徳性/習慣

明るさ、素直、清潔を好む、勇気、忍耐、孝、仁、義、礼、敬愛、謙虚、慈悲等。

そして、徳性を修める躾や習慣。


仮に、人間が明るさを失って暗くなり、不潔を好むようになり、人を愛さなくなり、勇気も忍耐力も無くしたら、人間はどんな存在になるか。


2.知性/技能

知識、技術生活を便利に豊かにするものを生み出していく。文化や文明を築いていく力となる。



例えば、徳性があまり発達せず、知性のみが発達しても、これは意味がない。

高度な知識や技術を使って様々な道具を生み出しても、人類の成長や発展の為ではなく、仁義も敬愛も慈悲もなく、利己的な満足や破壊の為に使用されかねない。


逆に、知性があまり発達しないからといって、人間としての根本的な価値に影響はない。

知識や技術は便利であり価値あるものだが、人間の人格にとっては付属的なものである。それよりも、人を愛したり助けたりすることを知らない、敬ったり恩に報いることを知らない、勇気や忍耐力がなく、不潔で暗い人間であるというのでは、全く話にならない。



「徳性」が本で、「知性」が末。

徳性が根っこで、知性が枝葉。

根っこを培養することで、枝葉に栄養を送り、様々に自己を表現し社会に献身し、花実を結実させていく。



従って、教育においても学び方に順序が出てくる。

1.徳性

2.徳性に基づく習慣

3.知能

4.技能


徳性が、習慣や知識や技術をコントロールする。


この本末を転倒させると、とんでも無い事になる。


私は、人格という根を深めているだろうか。そして、志や目標に向かって伸びる大樹になっているだろうか。

285話◇集中すること


精神を、何か一つのことに集中する。


すると、機智(その場に応じてとっさに働く鋭い知恵)、第六感(五感を超えた不思議な感覚)、霊感(神仏が乗り移ったような、理屈を得ない直感的認知)等が生ずるもので、そうすると、異常なことができるもの。


その意味では、人生は不思議なことばかり。



日々、修養鍛錬を重ねているなら、安心して物事に集中できる。

集中して取り組むこと、己を尽くすことがベストだ。


すると、自分の身体や頭が、状況に応じてどう反応するかが楽しみになる。

どんな状況でも、自分を自分で見限ることはない。


自分を追い込めば追い込むほど集中力は高まり、身体や頭は迷いなく働くようになる。



そしていつしか、一点集中はその視野が広がっていく。

例えば、車の運転に集中すれば、前方一点集中ではなく、前も横も後ろも全方位に意識は広がる。

集中が深まり、ある深さを超えると自分の意識は広がり、対象との一体感を感じるようになる。

そして、その意識はどんどん広がっていく。


集中とは、拡散であり一体感である。


まずは、自分の心と頭と身体の一体感、自分に集中する(落ち着く)ことから。


そして、今取り組んでいる事との一体感を持てるように集中。相手との一体感を持てるように集中。


すると、全て取り組むことは、他人事ではない。全て自分の肚の中の出来事となる。



今日も集中して、健康と健闘を。

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