2017年02月

誰かに認めてもらいたい誰もが抱く「承認欲求」だという。


ならば、他人のことは認めてあげればいい。

そして自分も認められたい?


いやいやいやいや、先哲はもっともっと頼もしい。



例えば「易経」は、こう教えてくれる。


・天行健、君子以自彊不息。 

「天行建(てんこうけん)なり、君子はもって自ら彊(つと)めて息(や)まず」。


天の運行が途切れることなく、規則正しく、健全に運行されていくように、君子も、自ら努め、学問に励み,人と交わり、職務を全うし、自分を向上させることを怠ることはない。


・地勢坤 君子以厚徳載物 

「地勢坤(ちせいこん)なり 君子は以て厚徳載物(こうとくたいぶつ)」


大地があらゆる生物を育むように、君子は徳を厚くし大きな度量をもって、全てを受け入れる。


周囲が自分を理解してくれるとか、してくれないとかそんなことは大したことではない。



例えば「論語」の最初の1ページ(学而篇)はこう教えてくれる。


人不知而不慍、不亦君子乎」(人知らずしてうらみず、また君子ならずや)


人が自分の存在や行いを認めてくれなくとも、気にしたり恨んだりすることなく、自分の目指すものに向かってひたすらに努力し続ける、それが君子というものだ。



人に認められるかどうかは、結果論。

気にしても仕方ない。甘えても仕方ない。

そんなことを気にするなんて、何と意気地のないことか


志(目標)を抱き、元気溌剌として歩む。

我が行く道を我は行く。


面白くなるのは、そこから!笑

人物たる最初の条件は何か。

性別や年齢や容姿、背の高さや体形は関係ない。それは、元気であること。気力・活力旺盛であり、生命力に富んでいることである。



世界は、光も熱も電気も音も、全てエネルギーの活動であり変化である。

エネルギーが旺盛でなければ、何事も微微たる活動に止まる。エネルギーは、「大は小を兼ねる」のだ。

私たちも同じ。

根本において生命力が旺盛でなければ、気力・活力、気迫がなければ、こそこそ蠢(うごめ)くだけで、そこには善も悪もない、肯定も否定もない。


とにかく元気であること。気力・活力旺盛であること。そして、その元気とは、理想精神・志を持ったものであることが大切だ。



で、気力・活力を阻害してしまうものも当然ある。

それは「恐怖心」。「恐れる」ということ。


禅宗の「修証義」の中に布施について書かれている。

布施の中でも「施無畏(せむい)」が最高の布施。「人生には、恐れることは何もない」ということが最高の教えであるとしている。


人物として一番大切なのは「元気」であること。そして、一番いけないのは「恐れる」こと。



アンパンマンは「愛と勇気だけが友達だ」と言った。彼のようなヒーローでさえ、「恐怖」とは友達にはならない。


さて、現実の世界に応用したい。

家を購入するのに必要なのは何か?

「恐怖」だろうか?

違う。


愛と勇気とハンコだ。



私たちにとって必要な「恐れ」とは何か。

元気やハンコを忘れてしまうことを恐れたい。


元気、気力、活力、理想精神を忘れてしまうことを恐れたい。

 


・飛び出して 見ても浮世の 外はなし

  早たち帰れ もとの心に


・犬生きと 思えど無駄に 死ねもせず

  死ねばやっぱり 犬死にとなる(杉浦重剛)


・己(おの)が身に ばかさるるをば 知らずして

  狐狸(きつね たぬき)を 恐れぬるかな(一休)


・道ふたつ 仁と不仁の 追分(おいわけ)や

  左は地獄 右は極楽(白隠)


・欲深き 人の心と 降る雪は

  積もるにつれて 道を失う(高橋泥舟)


・南無釈迦じゃ 娑婆(しゃば)じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと 言うは愚じゃ愚じゃ(坂本龍馬)


・身を削り 人をば救う すりこ木の

  この味知れる 人ぞ尊き(親鸞)

プラネットアース
野生動物の映像を観た。
当然だが、野生動物は命懸けで生きている。
生きるという緊張感と覚悟がヒシヒシと伝わってくる。

自分が生きるために獲物を殺し喰らう。


私たちも、他の動植物の命を殺し、それを喰らって生きている。

例えば、本来親子丼が食べたいなら、
本来なら、まずは鶏を絞めて殺すことから始めなければならない。

鶏を逆さに吊るし、バタつく鶏を羽交い絞めにして目隠しをする。そして、首を切り落とす。
血を抜き、茹でて、毛をむしる。バーナーで細かい毛も焼く。
尻からナイフを入れて内臓を出す。
むね肉、もも肉、手羽、のど等に分ける。

スーパーで売っているのは、肉を分けたこの状態にしてから。

「殺す」行為を端折(はしょ)るから、通常私たちは、他の動植物を殺す自覚は持たない。
しかし、私たちは毎日殺している。殺し、喰らい、生きている。


では、私たち人間が、他の動物と違う所はどこだろう?

動物は鋭い爪や牙を使って殺す。
そして、自らを生かすために喰らう。

人間は知識と技術を使って作った道具や武器を使って殺す。
そして、自らを生かすために喰らう。

「生きるために、殺し、喰らう」という点は動物も人間も変わらない。


動物と人間を分けるものは、
相手を敬愛する、尽くす、恩に報いる、恥を知る、誠実、勇気、感謝、仁義、礼節、忍耐、孝行、孝悌、忠義、志、明るい、清潔…等、
「造化」の働きを発揮する「徳性」を持っているかどうか。

従って、徳性(例えば、思いやり、敬意、礼節)を失うことは、人間として最大の堕落となる。

知識・技術・習慣は、徳性の上に乗せるべきものであり、徳性が根底にない単なる知識や技術というのであれば、動物と変わらない。


さて、皆で飯を喰らいながら思う。

私たちは、人という種の「動物」として生きるのか、それとも「人間」として生きるのか。

1.「姿勢・呼吸」を整える。

すると、


2.「心」が落ち着き、整ってくる。


心が整うと、


3.「仕草・動作・言葉・態度(立居振舞)」が整ってくる。



姿勢・呼吸を整える修養鍛錬を重ね、

心を養う修養鍛錬が必要。


心の修養鍛錬ができてくれば、自ずから「志」や「目標」が生まれてくる。


そして、その心の上に様々な知識・技術…等、あらゆる物事への取り組み、応対、挑戦等を乗せて、己の成長と周囲や社会への貢献へと自分を進める。


直接目に見えるのは、

1.姿勢と、3.仕草や言葉や行動だ。

2.心は目に見えない。


だから、

「姿勢」を整えれば「仕草・行動」が自然に整うという、「心」をすっ飛ばした考え方もある。


しかし、本筋はそうではない。


姿勢と呼吸を整えるのは、「心」を落ち着かせ、整えるためである。

そして立居振舞とは、整えた「心」が表に現れたものである。


つまり、直接見えない心が本(もと)であり、立居振舞が末なのだ。



どのような心を、整った心と言うのか?

それは、東洋思想の人物論へと譲る。

「易経」は「天行健、君子以自彊不息」と言い、「孟子」は「浩然の気を養う」と言う。が、その話はまたの機会に。


まずは24時間姿勢と呼吸を整える。人間の第二の天性である習慣にする。

それが精神的な骨格、強靭な背骨になる。


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