2017年01月

正月に手に入れた張子(はりこ)の達磨(だるま)。


達磨(ダルマ)は、元気の象徴、創造力の象徴だと思っている。


達磨といえば、七転び八起き。

九転び十起き。

起き上がり小法師。


 

あの赤や白の張子(はりこ)の達磨には、手が無い。足も無い。そしてひっくり返すと、自ら起き上がってくる。



元気のある人も同じだ。

倒れても倒れても倒れてもくじけない。

「まだまだこれから!何かできるはずだ!」という気魄とともに、何度でも起き上がってくる。


「元気」とは、これである。


何かをやってやろう、成し遂げてやろうとする気魄こそが元気である。



元気は、必ず知的好奇心に結びつき、精神を高める方向へ向かっていく。そして、その精神は「理想」を生む。


元気ある人間が何の理想も抱かずにいられるはずはない。

人間とはそういう生き物だ。


人間が「理想」を持つと、その理想に照らして現実を見る。そこから反省と自己批判、そして負けじ魂が生まれる。


また、「理想」はその人の行動の判断基準にもなっていく。



元気とは、必ずしも健康であるとか五体満足であるということではない。

虚弱体質や身体障害を持っていても、元気の獲得は当然可能である。


元気とは、私たち一人一人が必ず持っている不撓不屈の精神であり、未練を残さないことであり、思い切ることである。


「元気を出さなければ」と気負うものでもない。


自分に返り、落ち着けば、元気であるということは、ごく自然なことである。


造化の力・働きが、自然と己に満ち溢れてくるに任せて、業を成していく。志を貫いていく。



改めて今日決めたことが一つある。


「他を批判しない」。

「生きる」ということは、自分の欲望を満足させることと同義になってしまったのだろうか。


自分を毒することが習慣になっていないか。


欲求を、新しい要求という形で次々と作り出し、その要求の満喫や満足に身を委ねて享楽・安楽に耽(ふけ)っている。


例えば、消化・吸収の本質を考慮することなく、食べ物を腹一杯食べる。

安楽ばかり求める。

批判中傷や無駄口を好む…等々。



本来、人間は気力が充実していれば、元気であれば、その気力は精神的なものを高めていく。

本能的欲求と、そこからもたらさせる快楽に浸るような生き方では満足できなくなる。


人間と他の動物との違いを、高い精神性(道徳律)にあると考えれば当然である。


だから、精神的堕落が人間としての堕落の最たるものである。



…そうは言っても、本能的欲求は強い。

三大欲求(食欲・性欲・睡眠欲)は必然。もしそれらを無くしてしまったら、生命の維持や継続が難しくなるのだから。



では、本能と精神とは対立するのか?

そういう捉え方もあるが、対立ではなく調和・相互補完するものとして捉えたい。


しかし、本能と精神がちよするためには前提がある。本能が強く、精神が弱い状態では調和しない。

精神的なものを高めることで本能と調和でき、その上に人間的な生き方の大きな飛躍が可能となる。



精神力の根源は元気や気力。それは誰にでも備わっている。

本能と調和できるまで精神的なものを高めていくためには、「志」を抱き、志を貫いていくための克己心(自己規範)を持つことも肝要である。


「志」とは、「人間の生命に根ざしている自ら生きようとする目的」を言う。

そして、志を欲望と分けるものは、精神性があるかないかである。


そこで意味を持つのが、学問の修養・鍛錬と反省・克己である。


これらを怠れば、欲望(本能)が志(精神性)を飲み込んでしまう。

その影響は、学生時代より社会人になってからの方が大きい。

だから、社会人になってからも学び、修養・鍛錬を積み重ねていくのだ。


志を持ち合わせていなかったり、失ったりするのは、社会人になって学ばなくなった人に多い…。


そうなると、精神は欲望に飲み込まれ、安楽・享楽に走ったり、自虐的になったりしやすい。


それじゃ、やっぱり情けない…。


本能と精神を調和させ、自分を成長させるべく、己を鍛える方を選ぶよ。

陰陽思想から言えば、男は陽で女は陰である。


人間社会は男女から成り立っているのだから、男女のバランス、陰陽のバランスを取っていかなければ健全に回らない。


陽とは、外に分化・発展していく力であり、陰とは、陽と逆に、分化してバラバラになったものをまとめて統一し、根本に含蓄・潜蔵しようとする力。

全てのものは、陰陽両方あってはじめて存在・成立することができる。


根本は陰であり、陽は枝葉末節・花実的である。陰だけでは発展しない。陽の働きが活発になり、その中に陰を含むことで、物事は存在し変化していく。


目立つのは、もちろん陽であるが、本質である陰の裏打ちがあってはじめて陽は表面に出ることができる。

また逆に、陰が含蓄したものも、陽がなければ表現されることはない。


人間の「徳」は、本質的な要素であり内面的なものであるから、陰性のもの。

対して、才能技能は付属的なものであり外面的なものであるから、陽性である。


徳という裏打ちがあって、その上に開花する才能技能の持ち主を「人物」と言う。



さて、

「浮気」というものは、別の人に気持ちを移していくことだから、気持ちの分化であり、従って、陽(分化・発展)の働き、男の本能的なものである。

男はそこを反省する所から、節操を守っていく。痩せ我慢していくことになる。



女は陰性(統一・調和・潜蔵)であるから、本能的に貞節である。

だから、女の浮気ということは、その本質に反するものである。


だから、男の浮気より、女の浮気の方が重大である。



ただし、

女に浮気されるような男、女に捨てられるような男は、よっぽど「つまらない男」であることに間違いない。



男は、才気に溢れ、活発で不撓不屈、そして功名心もある。それだけに、陰的なものを取り入れなければ、己の才気に倒れ、闘争に敗れていく。

だから、常に内面的・道義的な修養鍛錬に努め、優雅な趣味でも持ち、痩せ我慢がきかなければ短命で終わる。


痩せ我慢、克己、忍耐は「徳」の一つであり、従って陰である。


男は陽。従って陰を育みバランスを取らなければ「人物」足り得ない。



「秘すれば花」という言葉もある。

陰陽共に秀れたバランスを持つ男であってこそ、その風格に趣きが出てくるもの。



男とは、

浮気ができないのではない。

浮気をするのでもない。

浮気はできるがしないのである。

中国の古典「呻吟語(しんぎんご)」に、男の理想像を絵画的表現で表したもの(男子八景)がある。


◾️「泰山喬嶽の身」(たいざんきょうがく)

→泰山や高い山嶽のようにどっしりと落ち着いてみえる身体。


◾️「海濶天空の腹」(かいかつてんくう)

→海の広々としているような、天の蒼々として何の遮るものもないようなゆったりとした腹。


◾️「和風甘雨の色」(わふうかんう)

→万物を生き返らせる和やかな春風の如く、甘くてやわらかな雨の如き顔色。


◾️「日照月臨の目」(にっしょうげつりん)

→日の輝いているような、月の照り映えているような輝きのある澄んだ目。


◾️「施乾転坤の手」(しかんてんこん)

→天をめぐらし地を転がせるような手。


◾️「盤石砥柱の足」(ばんじゃくていちゅう)

→盤石のようにどっしりとした、砥柱の激流の中にあってびくともしないで立っているような、そういうずっしりとした堂々たる足。


◾️「臨深履薄の心」(りんしんへいはく)

→深淵に臨む時のような、薄氷を履む時のような、注意の行き届いた心。


◾️「玉潔冰清の骨」(ぎょくけつひょうせい)

→玉の如く潔く水の如く清い清潔な骨。


これ男子八景なり。


「婦人六相」というのもあったな…。ま、それは後の機会に。



閑話休題。

また「呻吟語」では、人物についてこうも言っている。


深沈厚重(しんちんこうじゅう)なるは、是れ第一等の資質なり。
磊落豪雄(らいらくごうゆう)なるは、是れ第二等の資質なり。
聡明才弁(そうめいさいべん)なるは、是れ第三等の資質なり。


まず第一等の人物とは「深沈厚重」。どっしりと落ち着いて深みのある人物。

細事にこだわらない豪放な人物は第二等。

頭が切れて弁の立つ人物は第三等。



深沈厚重の人とは、さっき会ったばかりなのに、またすぐ会いたいと思わせるような余韻の残る人。

厚みのある温かさは人を惹きつけ、重みのある言葉は人を安心させる。(安岡正篤)




第一等は深沈厚重な人物。

型にはまった男が非常に多いというのは、それだけ世の中が常識的だということだが、少々面白くない。

そのつまらなさの解消を、世の中の悲惨なニュースなどの刺激に求めるのは情けない。


周囲に奇人変人はいるだろうか。

自分自身はどうであろうか。


そもそも、奇人の「奇」は本来「畸」と書いた。「田」は囲いであり一定区画を意味する。「奇」はその区画からはみ出している者を言う。

天に等しくして、人に畸なる者こそ「奇人」である。



東洋の人間学を4つに分けるなら、

1.頭。これは才能を表し、

2.旨。これは情緒、

3.腹。これは胆力・実践、

4.足腰。これは堅実さを表す。


その人が才能に溢れていても、才能だけではダメ。情緒は人を動かし協力させる力になるが、肚ができていないと弱い。そして足腰がしっかりしていないと堅実さと持続が保てない。


奇人は変人と言われるが、彼らはただの少数派であり、本当は前述の4つを備えた者を言う。


つまり、偉大なる常識人なのだ。


公私混同するような小さな人物ではない。



どんな場所でも求められるのは、このような偉大なる常識人ではないか。

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