2016年07月

■星を見る時、星を直接見るのではなく、ほんの少しだけ目線をずらして、夜空の暗いところを見る。すると、瞳が大きくなり、結果として光を沢山取り込み、星がよく見える。

星そのものを見ると、その光に反応して瞳が小さくなり、光の取り込み量が減ってしまう。よく見えなくなる。

星をよく見たいなら、星から少しだけ焦点をずらしてみる。


◼︎紅茶が大好きなら、毎日飲むのではなく、週に1杯だけに控える(第 31話)。

「もしも、大好きな紅茶を毎日飲んでいたら、それが当たり前になって紅茶に感激しなくなってしまう」。

活力や感激は、節制から生まれる。満足から生まれるわけじゃない。


◼︎易経も、咸恒の次は「遯」にいく。

徳川家康も「結婚してしばらくしたら、夫婦は必ず別々に寝よ」と言う。いつも一緒に寝ているようでは、天下の大事を成すに足らない。愛すべき人は愛するが、それに溺れない。

大切なものは、少し遠ざける。


◼︎技の稽古。焦点を合わせたつもりでも、未熟ならとんでもない方向に向かってるかもしれない。少しだけ焦点をずらした方が、かえって上手くいくこともある。笑

例)いつも相手を見ているより、後ろを見るように一瞬首を回すと、かえって肩が入り、体の軸が真っ直ぐになって、相手に上手く力が伝わることもある。



さて、真面目なカタブツ君、

大切なものを大切にするために、「少しだけ焦点をずらす」「大切なものを、あえて少し遠ざける」という勇気の存在にも心を開いてな。

最近の「道場法話」ブログは、調子に乗って浮ついているという顧問からの指摘を受け、その通りと痛感。反省。


道場での稽古を「陽」とすれば、勉強会は「陰」。

勉強会では、「小学」「大学」「中庸」「論語」「孟子」「易経」等、四書五経も学ぶ。

「大学」を見直して、浮ついた心を反省し、再スタートしたいと思う。


「大学」「修身・斉家・治国・平天下」という儒教の基本的な考え方の流れが上手くまとまっている。原文 1,753文字。


上は天子から下は名もなき庶民にいたるまで、すべて身を修めることを以って第一の本務とする。身(本)が修まらないで、家・国・天下が治まるようなことは決してあり得ないことである。

そもそも人間の愛情は、身近な家族に対する恩愛の情こそまず厚かるべきで、家族にくらべると疎遠な国・天下の人々に対する情誼は薄くなるのが自然の人情というものである。しかるに身近な家族には薄情でありながら、家族より疎遠なはずの国・天下の人への情誼を厚くするのは、順序が逆である。

そのようなことで国・天下がよく治まるということは、古からその例(ためし)がない」。(大学より)


力を「意思を貫き通す強さ」と定義すれば、「腕力」は実感しやすい力ではある。

しかし、私利私欲を抑えて、社会や歴史に参じることを考え、それを実践していくとしたら、腕力という力で男は満足すべきだろうか?


教育力、防衛力、経済力、政治力のように、直接自分が顔を合わせない相手に対しても、広く永く影響を与えられる方が、腕力よりも遥かに大きな力になる。


「企業の歯車は嫌だ。一国一城の主こそ男の本懐だ」という気持ちも分かる。しかし、その歯車が合わさって、一国一城を遥かに凌駕した力で社会に貢献できるとしたらどうだろう?


日々の稽古においては、自分たちの技にこだわる。が、「小さい力」にこだわりたいというわけではない。


技にこだわるのは、造化、実践にこだわるため。実践から遠い「理屈・論理」に陥らないため。そして、自分自身を棚に上げて、天下国家を語らないようにするためである。


自身の鍛錬(腕力)から、各々が養う徳の力(徳力)へ、そして己の義を貫いて歩む道の力(道力)へと進みたい。


結局、置かれた場所でどんな花を咲かせ、次世代への実を結実させるか。今ここでどう振舞うかという、日常の立居振舞に戻ってくる。



最後に、「大学」を再度引用する。

「上は天子から下は名もなき庶民にいたるまで、すべて身を修めることを以って第一の本務とする。身(本)が修まらないで、家・国・天下が治まるようなことは決してあり得ない」。


自分を棚に上げてはいけない。


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