「武」は「矛を止める(争いを止める)」という二字からなる会意文字。
日本人の武に対する考え方は、暴力の行使ではなく、それを止めることにあった。
そして、「文」と「武」とは補完的に考えられてきた。
即ち、「文」に流れると文弱になり、「武」に流れると暴力的になるという両方の弱点を補い合うために「文武」は車の両輪のように相伴うべきものという程度の意味で「文武両道」と解されてきた。
しかし、私達の「武」とはそこに留まるものではない。
「生きるとは闘うことだ」という言い方もあるように、人間の現実とは、弱さや邪悪さと闘い、勝たねばならない。
私達の「武」とは、臆病・卑怯・怠惰な心と闘い、私達の生活・社会・理想を1歩 1歩作り上げてゆく実践力であり、
現実から逃げることなく、着々と淡々と現実を浄化し、成長・共栄・調和へと進んでいくことである。
風雨、雷、雪、嵐と闘って地中深く根を下ろし、若木が伸び、花が咲き、やがて実を成らせるように、現実の中から成長・共栄・調和という理想、文化の花を開いてゆく実践力・努力・骨力を「武」という。
だから、「武」があってはじめて「文」がある。本体は「武」である。
従って、理想を体現させ、文化の花を咲かせるような「武」でなければ、武とは言わない。
根底に人道的精神を確立させつつ、現実の弱さや邪悪さに堂々と直面し、その罪を憎むが人は憎まない。
弱さや邪悪さから作られる罪を人間からなくすために、弱さや邪悪の侵略という「矛」を「止」めるのが、私達の「武」である。