2015年11月

「武」は「矛を止める(争いを止める)」という二字からなる会意文字。


日本人の武に対する考え方は、暴力の行使ではなく、それを止めることにあった。


そして、「文」と「武」とは補完的に考えられてきた。

即ち、「文」に流れると文弱になり、「武」に流れると暴力的になるという両方の弱点を補い合うために「文武」は車の両輪のように相伴うべきものという程度の意味で「文武両道」と解されてきた。


しかし、私達の「武」とはそこに留まるものではない。


「生きるとは闘うことだ」という言い方もあるように、人間の現実とは、弱さや邪悪さと闘い、勝たねばならない。


私達の「武」とは、臆病・卑怯・怠惰な心と闘い、私達の生活・社会・理想を1 1歩作り上げてゆく実践力であり、

 現実から逃げることなく、着々と淡々と現実を浄化し、成長・共栄・調和へと進んでいくことである。


風雨、雷、雪、嵐と闘って地中深く根を下ろし、若木が伸び、花が咲き、やがて実を成らせるように、現実の中から成長・共栄・調和という理想、文化の花を開いてゆく実践力・努力・骨力を「武」という。


だから、「武」があってはじめて「文」がある。本体は「武」である。


従って、理想を体現させ、文化の花を咲かせるような「武」でなければ、武とは言わない。


根底に人道的精神を確立させつつ、現実の弱さや邪悪さに堂々と直面し、その罪を憎むが人は憎まない。

弱さや邪悪さから作られる罪を人間からなくすために、弱さや邪悪の侵略という「矛」を「止」めるのが、私達の「武」である。

社会学者チェスタートン
「健康と養生を混同したところに誤りはある。
健康はむしろ不養生と関係がある。
医者が病人に向かって、身体に気をつけるよう注意するのは当然だが、健康な人に向かって話すべきは、健康な人間の根本的機能というものは、ビクビクと臆病に生きるようなものではないということを、断言することだ」。


  私も同感だ。
  健康というものは、自らの努力を必要とせず、医者は薬が与えてくれるものだというような幻想を抱いてはいけない。

健康は創造的生活に依って立つものであり、状況や環境にいかに応じ、いかに自分を発揮していくかが肝要。

安全・快楽を過度に求め、苦痛や努力を避けようとする意気地なしでは、生物学的にも危険を有するものであり、国家社会の衰退にも向かっているとの自覚が必要ではないか。

  個人の適応能力を高める工夫を修養していかなければ、生命の強さや沢山の長所を犠牲にして、ただ延命のための方法を探して、次から次へと放浪することになりはしないか。

  易経の「乾」の卦にも明示されているように、「天行は健なり。君子以って自強息(や)まず」でなければならない。

卑怯・臆病・怠惰な心ではどうしようもない。
怯まず、臆さず、勇敢に、己の心を素直にして
喜怒哀楽・栄枯盛衰・利害得失・義理人情を舐め尽くすように、あらゆることを果敢に経験していくことだ。


健康、まずは飲食を慎む。

独とは、自己に徹して生きること。
独立とは、独り立ち。世の中がどうあっても、他人がいかにあろうが、自己に徹して生きて行くという意味になる。

私たちも、独立できるだけの信念と哲学を持たなければならない。
そこから政治・経済・学問…様々な政策、何でもここから打ち出していく。
惰弱な利己的打算からものを見て、フラフラしている人ほど弱く残念な立場はない。


さて門下生の学生諸君、家庭の愛情に甘えてばかりいないで、「◯◯をさせてくれ」と自主的に動いて下さい。
それができるようになったら「次はこれに挑戦させてくれ」というような、様々な問題に挑戦していく生き様を、足元の日常生活・学生生活から展開して下さい。

更に、これからの人生を、あなたが主人公として、世の中から「しっかり生きろ」と願われ期待されていることを自覚し、素晴らしい人生作りに挑んで下さい。

次回は、論語の「本を務む」、大学の「修己治人」より、今回のテーマについてまた考えたいと思います。

野生動物のドキュメンタリー
動物の狩りは、相手がどんなに小さな獲物でも全力を尽くす。

ある野生の豚の家族のところに、ヒョウが飛び込んできた。
不意を突かれた豚たちは、バラバラに散って逃げていくが、とうとう一匹がヒョウの牙に捕まった。

その豚は、
一番弱い子豚ではなく、母豚でもなく、
一番足が速く力も強い父豚。

彼がヒョウの餌食になり、家族全員を逃した。

女、子供、弱い者を、自分の命に代えても守り抜く。
漢の価値はそこにある。

豚に漢を見た…。

男に生まれたなら「男らしくしっかり生きてくれ」と、世の中は期待している。

私たちは、豚以下の生き方をするわけにはいかない。

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