自分を毒することが習慣になっていないか。
欲求を、新しい要求という形で次々と作り出し、その要求の満喫や満足に身を委ねて享楽・安楽に耽(ふけ)っている。
例えば、消化・吸収の本質を考慮することなく、食べ物を腹一杯食べる。
安楽ばかり求める。
批判中傷や無駄口を好む…等々。
本来、人間は気力が充実していれば、元気であれば、その気力は精神的なものを高めていく。
本能的欲求と、そこからもたらさせる快楽に浸るような生き方では満足できなくなる。
人間と他の動物との違いを、高い精神性(道徳律)にあると考えれば当然である。
だから、精神的堕落が人間としての堕落の最たるものである。
…そうは言っても、本能的欲求は強い。
三大欲求(食欲・性欲・睡眠欲)は必然。もしそれらを無くしてしまったら、生命の維持や継続が難しくなるのだから。
では、本能と精神とは対立するのか?
そういう捉え方もあるが、対立ではなく調和・相互補完するものとして捉えたい。
しかし、本能と精神がちよするためには前提がある。本能が強く、精神が弱い状態では調和しない。
精神的なものを高めることで本能と調和でき、その上に人間的な生き方の大きな飛躍が可能となる。
精神力の根源は元気や気力。それは誰にでも備わっている。
本能と調和できるまで精神的なものを高めていくためには、「志」を抱き、志を貫いていくための克己心(自己規範)を持つことも肝要である。
「志」とは、「人間の生命に根ざしている自ら生きようとする目的」を言う。
そして、志を欲望と分けるものは、精神性があるかないかである。
そこで意味を持つのが、学問の修養・鍛錬と反省・克己である。
これらを怠れば、欲望(本能)が志(精神性)を飲み込んでしまう。
その影響は、学生時代より社会人になってからの方が大きい。
だから、社会人になってからも学び、修養・鍛錬を積み重ねていくのだ。
志を持ち合わせていなかったり、失ったりするのは、社会人になって学ばなくなった人に多い…。
そうなると、精神は欲望に飲み込まれ、安楽・享楽に走ったり、自虐的になったりしやすい。
それじゃ、やっぱり情けない…。
本能と精神を調和させ、自分を成長させるべく、己を鍛える方を選ぶよ。
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